出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
東京都日本橋にある町名。1947年以降は中央区日本橋兜町。東京証券取引所を中心に,大小100余の証券会社が集まり,日本の代表的証券街となっている。そのため兜町の名は,日本の証券市場ないし証券界の代名詞として,また東京証券取引所(東証)の同義語として用いられることが多い。ウォール街(ニューヨーク株式取引所),北浜(大阪証券取引所),伊勢浜(名古屋証券取引所)と同様である。現在の兜町かいわいは,江戸時代初期に埋立てによってできた。元禄(1688-1704)のころには徳川家と親密な大名や奉行の屋敷が並んでいた。1871年(明治4)9月,明治維新の論功行賞としてこのかいわいの土地が三井組等に下賜され,兜町と命名された。兜町の北側には日本橋川があり,西側には楓川が流れていた。日本橋川の北側には,江戸時代から商業の中心地であった日本橋,小舟町,小網町などがあり,この川を利用して物資の集散が行われていた。明治維新後,新政府は殖産興業をスローガンに近代産業の育成に力を入れ,商業の中心地を控えた兜町の武家屋敷跡に,為替会社や通商会社などを設立した。71年には三井系の東京商社(のちの東京兜町米商会所)が米の定期取引を開始した。73年には,日本最初の国立銀行として第一国立銀行が,現在の第一勧業銀行兜町支店所在地に創立された。さらに78年には,日本最初の株式取引所として東京株式取引所(東株)が開設され,6月1日から営業を開始した。それ以来,兜町は株式の町として発展を続けてきた。取引所の性格は,当初の清算取引を中心にした投機の場から,第2次大戦後は産業資金の調達と国民の資産運用の場に脱皮した。
兜町という町名は,江戸時代にこの地の牧野氏邸内にあった兜塚・甲山(かぶとやま)にちなんでつけられたといわれている。兜塚(現在の兜神社内)の由来については次のような話が伝えられている。1050年(永承5)ころ,源義家は前九年の役に大軍をひきいて奥州に向かう途中,このあたりで暴風雨に見舞われ,鎧(よろい)1領をとって海中に投じ,竜神に手向けて難をのがれた(これにちなみ,この所を鎧ヶ淵と呼ぶようになったという)。義家は奥州征伐凱陣のとき,先の報賽(ほうさい)のため,また東夷鎮護のためとして,自らの兜を埋めて塚を築いた(のちに里人が義家の霊を鎮める祠を建て,これが兜神社になったと伝えられている)。また甲山については,藤原秀郷が平将門を討ち,その首とともに兜を持ち帰り,この地に埋めたことによると伝えられている。
なお,兜町は江戸時代中期までは鎧ヶ島と呼ばれる島だったことから,現在でも〈島〉ないし〈シマ〉と呼ばれることがある。
→東京証券取引所
執筆者:戸田 周作
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東京都中央区にある町名で、1947年(昭和22)以降日本橋兜町となる。ニューヨークの2取引所に次いで世界第3位にある東京証券取引所を中心に証券会社が集中し、「島」の別称で親しまれ、兜町の名は東京証券取引所の同義語として、また日本の証券市場の代名詞ともなっている。兜町の名は、町の一角にある兜塚の伝承による。兜塚の起源については、源義家(みなもとのよしいえ)が奥州征伐の凱旋(がいせん)のおり、兜で塚を築いて、東夷(とうい)鎮護の神仏加護と戦勝を祈願したという説をはじめ、諸説がある。1873年(明治6)に日本最初の国立銀行がこの地に設立され、1878年に日本最初の東京株式取引所(現在の東京証券取引所)が開設されてから、多数の証券会社が進出し、証券業界、証券市場の中心となる基礎がつくられた。兜町は第二次世界大戦後、一貫して株式の民主化への努力を重ねて株式投資の大衆化に貢献してきた。
[桶田 篤]
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…丸の内にオフィス街がつくられる以前にも多くの企業が集中した場所がなかったわけではない。明治初期から中期にかけて兜(かぶと)町を中心とする地域に時代をリードする企業が集まっていたが,丸の内開発とともにその地位を譲っている。東京駅の開業を見込んで発展した丸の内に対して,兜町付近は水運に恵まれていたということが初期には注目されたわけだが,結局この地は大港湾には適さず,すでに世は鉄道の時代を迎えていたのである。…
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