改訂新版 世界大百科事典 「入墨」の意味・わかりやすい解説
入墨/刺青 (いれずみ)
tattoo
皮膚に鋭利な道具で傷をつけ,そこに色料をすり込むかまたは注入することにより文様を浮かび上がらせるもの。文身(ぶんしん),刺青(しせい),黥(げい)などともいわれる。身体装飾のうちの身体彩色の一技法としては,文様がほぼ永久的に維持される点を特徴とする。また身体変工の一技法ともいえる。この場合,体表面に傷をつけて文様をしるすという意味で広義に〈文身〉をとらえ,その下位区分として入墨を刺痕文身と称し,色料を使わない瘢痕(はんこん)文身cicatrizationまたはscar-tattooingと区別する。入墨を意味する英語のtattooは,18世紀後半にクック船長が南太平洋のタヒチでtatauと呼ばれていたこの習俗を西欧社会に紹介したことに由来する。入墨自体およびその技法は多種多様で,人々の自然環境や文化的背景を反映している。
歴史と分布
先史時代の入墨の事実を直接的に示す数少ない考古学資料としては,エジプトやアルタイ地方で入墨のあるミイラが発見されている。これらは4000年から2000年くらい前のものと推定される。また各地の遺跡で出土する鋭利な道具や体に文様のある人像などから,入墨の存在を推測することができる。ヘロドトスはトラキアの貴婦人の入墨を記録しており,《ガリア戦記》によれば,ブリトン人兵士はみな刺青をしていた。《漢書》地理志や《魏志》には中国江南の越や日本の倭における入墨が記されている。キリスト教の普及以後のヨーロッパや統一王朝下の中国では,一般に広く行われることはなかった。聖書やコーランには文身の禁止が説かれているが,その理由は宗教的シンボルを彫ることが偶像崇拝に通ずるからだといわれる。19世紀の時点で知られる世界の入墨の分布を見ると,オセアニアを中心に,西はボルネオから東南アジア大陸部に入りインドへと延び,アフリカ北部にまで分布している。北はフィリピン,台湾,日本へと続き,さらにシベリアから東へアレウト列島を通って沿岸部を中心とする北アメリカに至り,そこから北はグリーンランドまで,南はメキシコを経て南アメリカのアマゾン流域にまで広がっている。肌の色の黒い人々の間では入墨は効果を上げないので,代わって瘢痕文身が盛んである。当該社会の人々一般に広く普及する,文化的・社会的に重要な機能を有する入墨は,主として無文字社会に多く見られる。西欧に発する近代文明の全世界的浸透の著しい20世紀においては,服装,世界観,象徴体系などの変化によって,その種の入墨は急速に姿を消していった。一方,西欧社会では19世紀の後半以降,個人的趣味としての入墨が社会の一部で流行し始める。明治初期の訪日の折,後のジョージ5世は腕に竜を彫らせ,イギリスで波紋を呼んだ。1960年代までは西欧における刺青愛好者は兵隊や水夫たちが大半を占めていた。
技術
色料は樹木を燃やしてその煤や油煙や炭からつくることが多く,藍色や黒色の墨が最も一般的である。アメリカ・インディアンやビルマ人の間では暗紅色の入墨も好まれた。日本では江戸時代後期以後に任俠界を中心に色鮮やかな入墨が隆盛を見るが,そこでは朱,べんがら,ロクショウなどの顔料が用いられている。施術具は骨,歯,木,とげ,貝など自然物を加工した素朴なものから,19世紀末にアメリカ合衆国で発明された電動のものまである。刃状のものと針状のものとに大別できる。エスキモーをはじめとする極北やシベリアの諸民族には非常に独特な技法が見られる。糸に色料を塗り付け,針で皮膚を縫い,色素を皮下に定着させるのである。入墨の最も発達した地域の一つであるポリネシアでは次のような施術過程をたどる。まず炭や赤土で下がきされる。次に鋸歯状に骨片が付いた手斧形の道具を皮膚面に当て,軽い木棒で打撃を与えて文様が刻まれる。亜麻で血が拭き取られ,色料がすり込まれる。被術者は施行の前後に体を暖めたり蒸し風呂にはいるなどして痛みを減じる。このポリネシアの例にも見られるように,入墨には苦痛がつきものであり,多様な対処法が工夫されている。たとえば19世紀のビルマ(現ミャンマー)においてはアヘン麻酔が使用された。施術後の炎症から発熱や化膿を見ることがあり,医療水準の低い社会では死に至ることさえ珍しくない。そこで大規模な入墨は段階的に時間をかけて彫り込まれた。
部位と文様
入墨は頭皮や局部に施されることもあり,あらゆる皮膚面に行われる可能性がある。その施される部位は入墨の意味や機能と深く結びついている。たとえば他人に明示する必要があれば,当然,身体の露出部分に入墨されるのである。女性のあごや口唇部の入墨は,ニュージーランドのマオリ族では既婚者,インドのトダ族では母親,アイヌでは可婚者の印となるが,女性におけるこの部位の入墨は北アメリカ,北東アジア,アッサム,ニューギニア,フィジー,近東,北アフリカと広く分布している。また腹部から上腿部にかけて一面に施され,半ズボンをはいたように見える入墨は,アッサムから東南アジア,中国西南部,ボルネオに分布し,ビルマ人やタイ系諸族では一人前の男の印であった。これらの部位に施される入墨については,生殖能力との象徴的連関が考えられる。文様は幾何学的な線や図形,動植物などの具象的図柄,文字など多岐にわたる。北アメリカのハイダ族ではカミナリチョウ(サンダーバード),ハイイログマ,オオカミ,タラなどトーテムの動物が描かれた。通例,身体の露出度の高い民族に全身的文様がよく見られるのだが,入墨の精緻な発達を見た日本でも,全身に及ぶ華麗な図柄が彫られることがある。これに対し,近代西欧社会の入墨は,単一の図柄を局部的に描くものが大半を占める。
機能と意味
入墨はその所有者に関する情報を他に伝達する機能を持つ。特に一人前になったことを周囲に示すためのものが多い。台湾のアタヤル族の場合,かつては男は首狩りで初めて敵の首を取ったとき,女は機織に熟達したとき,顔面に入墨を施した。入墨を済ませた者だけが伴侶を得て後続世代を生み育てることを許された。入墨の多大な苦痛に耐えて部族の伝統的しきたりを踏襲することによって,十分な忠誠心と責任感を備えた社会の正式な一員として認められたのである。この場合,単に他の者に成年としての身分を明示するだけでなく,入墨施術を経た本人に,大人になるための試練を通過したという自覚と自信を植えつける意味があることも忘れてはならない。アタヤル族には入墨の起源を語る次のような神話が伝えられている。原初に兄と妹が2人だけで生活していた。結婚適齢期になったとき,妹は兄に結婚を勧め,自分は顔に黥を施し,妹であることを隠して夫婦となった。そして子孫が生まれた,というものである。このように結婚の条件としての入墨は,神聖なレベルにおいても意味づけられているのである。人の身分に関する情報伝達手段として入墨が優れている点は,その永続性にあるといえる。消し去ることのできない印として入墨の意味は重大である。マオリ族が〈モコ〉と呼ぶ入墨は首長や戦士の目印としても用いられた。バンクス諸島では秘密結社への参加が許されると,腕に結社のシンボルが彫られた。
入墨が死後の幸福な生活を得る条件となっている例は,東アジア,東南アジア,インド,オセアニアなど広範に見られる。沖縄など南島の女性の手甲に施された〈針突(はづき)〉やアイヌ女性の入墨もこの系統に属している。入墨のない死者は成仏できないといわれた。入墨はまた,超自然的力を発揮する。インドのゴンド族は強い力の持主とされる猿神ハヌマンの像を腕に彫って,それにあやかろうとした。ビルマ女性は両眼の間や唇,舌などに施す三角形の入墨が,男性を魅了する不思議な力を持つと信じた。装飾としての入墨の魅力は独特である。描かれた文様は生身の人間の肌の上で生命力を持つかのごとく躍動する。古今東西を通じて入墨が広く行われてきた背景には,官能に訴えかける魅力があるに違いない。最近のアメリカでは入墨芸術を積極的に評価しようとする動きも見られる。
→身体装飾 →身体変工
執筆者:横山 広子
日本
彫物
江戸時代には〈入墨〉の語は,墨刑(ぼくけい)のことで前科者と同義であり,風俗としての刺青は〈彫物(ほりもの)〉とよばれて区別されていた。江戸初期に関西の遊廓でおこった〈入れぼくろ〉の風習が彫物の風俗の始まりという。これは遊女が愛の証しとして左の二の腕の内側に相手の年齢の数のほくろを入れたり,男女が互いに親指のつけ根にほくろを入れるもので,〈起請(きしよう)彫〉ともよばれた。この風習は江戸でも流行し,やがて〈某命〉という形式で相手の名前を彫る風も生まれた。また遊廓の外でも,〈南無阿弥陀仏〉など神仏への誓いの文字を彫る風も行われ,《女殺油地獄》(1721)には腕の彫物で人々を威嚇する風俗も描かれている。初期の彫物は文字がほとんどで,絵や文様を彫る風はなく,専門の彫師もいなかった。しかし時代がくだると,鳶(とび),魚屋,駕籠(かご)かき,船頭などの職人や勇み肌の者が粋や伊達(だて)から威勢を示すために競って彫物を施し,また絵柄も豊富となり,色彩を施すようになって専門の彫師も生まれた。こうした風潮を強めたのは,《水滸伝》を題材にした絵師の一勇斎国芳の一連の作品で,文化・文政年間(1804-30)には幕府の禁止にもかかわらず彫物は盛行を極めた。また江戸の刺青美を完成した国芳の画風を継承した芳年の作品,とくに〈美男水滸伝〉は明治以後の刺青の下絵として大きな影響を与えた。しかし,明治になると彫物は禁じられ,一部の者だけに限られるようになった。
執筆者:村下 重夫
墨刑
江戸幕府の刑罰の一つ。古代には黥刑(げいけい)の例があるが,制度としては将軍徳川吉宗によって整えられた。吉宗は1720年(享保5)耳そぎ,鼻そぎの刑に代えて採用したが,これには中国の明・清律の刺字(しじ)の影響がある。同年に始められた敲(たたき)刑とともに,窃盗罪に対する刑罰として,《公事方御定書》以後,幕府法上最も用いられた刑種であった。庶民に適用されるもので武士には科さず,また単独に科す場合のほか,敲刑あるいは追放刑と併科した。江戸では牢屋内で執行し,受刑者の左腕の肘の5分ほど下に,墨で幅3分ずつ2筋,中を7分ほどあけて輪を書き,その上を木綿針4本を並べて竹にはさんだもので突く。針跡に指で墨を塗り,水で墨を洗ったのち紙で結んで3日間溜(ため)に入れ,乾いたようすを見届けて執行を終わった。以上は三奉行,火付盗賊改の例で,人足寄場や遠国奉行では形状が異なった。入墨はまた累犯処罰の目印で,窃盗罪などでは初犯敲,再犯入墨,三犯死罪とされていた。入墨を施されると社会生活が困難になるため,犯罪者は追放刑より入墨を恐れた。またこれを隠すため,火で焼いたり,ほかの彫物を加えたりした。これが発覚すれば,もとのように入墨のうえ江戸払にし,入墨のうえ追放刑を科された者が立ち帰ると,増入墨といってさらに1本入墨を入れた。1870年(明治3)明治新政府は墨刑を廃して適宜,笞・杖刑に替えるように命じ,入墨刑は消滅した。
執筆者:平松 義郎
中国
刑としての入墨について述べる。入墨は中国語で,墨,黥,墨辟,墨罪,刺配,刺字などという。《尚書》《周礼》などの古典以来見えるところで,秦漢の時代にも多く行われ,刑名として存在したが,漢の文帝の刑制改革によって廃された。その後,刑罰体系としての五刑からはずされ,刑名として存在しなくなったが,一種の付加刑としては五代の晋以後〈刺〉として現れる。清朝を例にとると,犯人の顔および臂に刺して刑余の人たるを示す。初犯は笞・杖刑につき右臂,徒刑以上につき右顔面に刺し,再犯以上は左顔面に刺すのが基本で,窃盗ほか特定の罪については,その事由と地名を面の左右に刺した。なお,強盗・殺人など重罪の未決囚に対し,〈強盗〉〈兇犯〉の字を刺し,しかる後収監した。いずれにせよ,入墨は起源の古い刑罰の一種で,他人と面貌を異にさせ,共同体からの排除を目指すものであって,終身回復不能の烙印となった。刺字は1905年(光緒31),修訂法律大臣の奏議によって廃止された。なお唐末五代以降にみられる軍隊における刺字は,動乱期に兵士の徴発・確保が困難な状況のもとで,兵士の逃亡を防ぐために出現したもので,刑罰体系外の刺であるが,一般的に習俗として行われる自己顕示としての入墨とは性格を異にする。
執筆者:奥村 郁三
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