八坂村(読み)やさかむら

日本歴史地名大系 「八坂村」の解説

八坂村
やさかむら

[現在地名]杵築市八坂・相原あいわらなど

八坂川下流の広い地域を占め、北は本庄ほんじよう村、南は大神おおが(現日出町)、西は藤原ふじわら(現同上)。「和名抄」速見郡五郷の一つ八坂郷の遺称地。豊後国弘安図田帳には「八坂荘二百町」とみえる。慶長五年(一六〇〇)二月七日に細川氏領となり、同六年木下延俊が日出ひじ(現日出町)に入封し、日出藩が成立すると、八坂村のうち一千石余が日出藩領となる。細川氏の小倉藩慶長人畜改帳では木付きつき廻のうちに上八坂村と下八坂村があり、上八坂村は家数四五・人数一二一(うち庄屋・肝煎三、名子・小者共一〇、おとりこ五)、牛二三・馬五、下八坂村は家数一二八(うち鍛冶・大工五、肝煎四・役者五二)、人数二五一、牛四一・馬五とある。細川氏(小倉藩)領分は寛永九年(一六三二)木付藩小笠原氏領となる。木付藩主が小笠原氏から松平氏に替わった正保二年(一六四五)、木付藩領八坂村の一部は幕府領となる。八坂村は大村であったため、もとから村内はいくつかの集落に分れていたが、このとき以降幕府領では集落名を村名として把握し、日出藩では八坂村、木付藩では上八坂村・下八坂村と称していたと思われる。

八坂村
やさかむら

[現在地名]徳地町大字八坂

佐波川の上流に位置し、北は船路ふなじ、西は引谷ひくたに、南は小古祖おごそ、東は三谷みたに深谷ふかだにの各村に接する山間村。村の西部は狗留孫くるそん山の北東山腹にあたり山地、東部は佐波川が南流し、水田帯を形成、集落もこの地域にある。萩藩領で徳地宰判に属した。

天文一九年(一五五〇)一二月一日付の毛利隆元御判物写(「注進案」所収延命寺文書)に「下徳地内八坂東光寺重延名事」とみえる。

近世初期は下徳地しもとくじの一部であったと思われる。「地下上申」(享保一一年分)には独立した一村として記される。

八坂村
はつさかむら

[現在地名]彦根市八坂町

大藪おおやぶ村の南西、犬上いぬかみ川左岸に位置し、西は琵琶湖に面する。北東約五キロの湖上に属島の多景たけ島が浮かぶ。「万葉集」巻三に「磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十やその湊に鵠多に鳴く」と詠まれた八十の湊は当地にあったと伝え(温故録)藤原俊憲の「君が代のかずにはしかじかぎりなきちさかのうらのまさごなりとも」(千載集)など詠歌が多く、のち歌枕となった千坂ちさかの浦も当地のことといわれる。中世当地には八坂庄が成立、比叡山(日吉社)領・京都北野社領・殿下渡領などがあった。

八坂村
やさかむら

面積:三三・六平方キロ

北安曇郡の中部やや南寄りにあって、中山なかやま山地とよぶ丘陵性の山地が村の主体となっている。村の西部は、北から霊松寺れいしようじ山・鷹狩たかがり山・南鷹狩山・大峰おおみねと標高一〇〇〇メートル級の山が馬の背のように連なり、東部は標高五〇〇メートルほどのさい川峡谷へ落ち込むといった概して東傾斜の地形である。村の中央を流れる金熊かなくま川は、北隣の美麻みあさ村から流入し、いったん南流したあと東に向きを変え、東筑摩ひがしちくま生坂いくさか村を経て犀川に流入するが、この川は八坂村域の至る所に深い谷をつくって起伏の多い地形をつくり出している。八坂村の名も、このように坂の多いことから生れている。

八坂村
はつさかむら

[現在地名]下部町八坂

折門おりかど村の東、大平おおひら山から釈迦しやかヶ岳(一二七一・二メートル)の稜線の南斜面、反木そりき川の最上流域山地に立地し、現下部町域では最高所(標高約九六八―一〇〇〇メートル)である。八坂・三ッ沢みつさわ印沢おしてざわの散在小集落からなる。慶長古高帳に八坂とみえ高二石余、幕府領。文化(一八〇四―一八)初年の家数二〇・人数六二(甲斐国志)九一色くいしき郷に属し、鑑札四枚を所有(→折門村。山口伊予守宅跡の伝承地があり(同書)、また甲斐源氏の一条次郎忠頼(武田信義の嫡男)の家臣今福善九郎がこの地を開いたと伝え、善九郎は忠頼が鎌倉で殺されたのち出家し、浄閑と号したという。

八坂村
はつさかむら

[現在地名]鳥取市八坂

橋本はしもと村の南西、八坂山の北側山麓に位置する。拝領高は三二〇石余、本免五ツ七分。安政五年(一八五八)の生高四一四石余、物成一九七石余。山役米三石五斗余・藪役銀二匁六分余を課されていた(「邑美郡下札帳」太田垣家文書)。田淵・井尻・伊藤・羽田・二宮各氏および東館家家臣臼田氏の給地があった(給人所付帳)。「因幡志」によれば家数一六。安政五年の村々生高竈数取調帳では竈数一五。文化一〇年(一八一三)春、藩から救米の給付を受けた。同年従来からの鳥取城下火消しを任務とする在方駆付人夫五人に加えて、城内火消役の御城駆付人夫五人を課せられた(以上「在方諸事控」)

八坂村
はつさかむら

[現在地名]金山町岩瀬いわせ 八坂

相原あいはら村の北、馬瀬まぜ川東岸にあり、対岸は乙原おつぱら村。美濃国郡上ぐじよう郡に属する。正保郷帳に村名がみえ、田五六石余・畑一八石余、郡上藩領。正保三年(一六四六)分知により旗本遠藤領となる。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報