円覚寺跡(読み)えんかくじあと

日本歴史地名大系 「円覚寺跡」の解説

円覚寺跡
えんかくじあと

[現在地名]那覇市首里当蔵町二丁目

首里城久慶きゆうけい門の北にあった臨済宗の寺。沖縄戦で破壊され、復元・修復された総門と放生ほうじよう池・放生橋があるのみ。国指定史跡。山号は天徳山、本尊釈迦如来。開基は京都南禅寺の僧芥隠承琥。天王てんのう寺・天界てんかい寺とともに首里王府の三大寺とされ、なかでも筆頭格の寺院琉球における臨済宗の総本山であった。首里古地図によると西に円鑑えんかん池と弁財天べざいてん堂、北に大里按司屋敷および興禅こうぜん寺、東に広徳こうとく寺と中城なかぐしく御殿大里ノあむしられ屋敷がある。なお中城御殿大里ノあむしられの屋敷と記載されている部分は建善けんぜん寺の寺域だったと考えられる。寺は西側を正面とし、残りの三方石垣を二重に巡らす。石垣と石垣の間は松林となっており円覚寺松尾えんかくじまーちゆーとよばれた。

当寺は第二尚氏王統の菩提を弔うため、尚真王の発願により弘治五年(一四九二)着工、同七年に完成した。創建当時の伽藍は荒神堂・寝室・方丈・仏殿・法堂・山門(三門)・両廊および僧房、厨庫・浴室・鐘楼・鼓閣などがあった(「琉球国由来記」、「球陽」尚真王一六年条)。正面ほぼ中央の総門は円柱入母屋造、三間二面の八脚門で、左右に仁王像が安置され中央に両開き桟唐戸を設けてあった。総門の南側に石造千鳥破風屋根の左掖門、北側には石造唐破風屋根の右掖門があった。総門を過ぎると放生池・三門・仏殿・竜淵りゆうえん殿を東西一直線上に配置し、東方にいくほど地勢が高くなっている。放生池に架かる放生橋(国指定重要文化財)は弘治一一年長史梁能・通事陳義が監督造営した(円覚寺放生橋欄干銘、「球陽」尚真王二二年条)。石造勾欄(県指定文化財)は親柱柱頭の蓮座上に子連れ獅子、羽目石には雲鶴・亀・牡丹・蓮華などの精巧な彫刻が施されている。沖縄戦で池中に落下していたが、修復後、もとの位置に架橋している。橋を渡り石段を上ると三門があった。二層の入母屋造で円柱三間二面、両脇に切妻屋根の門廊があった。「球陽」尚貞王二八年(一六九六)条によると、もとは楼上に仏像を安置していたが朽果ててしまい、何仏かわからなくなったため改めて観音像と十六羅漢像を安置、撤去された古像は二箱に収めて荒神堂に移したとある。

その東の仏殿は二層の入母屋造で円柱五間五面、鎌倉円覚寺舎利殿の建築様式の影響を強く受けた寺の中心的な建物であった。天井には幾重にも組合された枡組があり、白・黒・朱で彩色し、須弥壇壁画の配色に照応していた。床には甎とよばれる瓦のタイルが敷かれていた。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「円覚寺跡」の解説

えんかくじあと【円覚寺跡】


沖縄県那覇市首里当蔵(しゅりとうのくら)町にある寺院跡。首里城の北麓ハンタン山の入り口にある沖縄第一の巨刹。臨済宗総本山、かつ尚王家宗廟(そうびょう)であったことから、沖縄の貴重な仏教遺跡として、1972年(昭和47)に国の史跡に指定された。1497年(弘治10)、尚真王が京都の臨済宗僧芥隠(かいいん)を開山として創建。鎌倉円覚寺にならって禅宗七堂伽藍(がらん)を備え、同時に宗廟「御照堂」を建てたといわれ、山門外に池と石橋築造、寺前に円鑑池・弁財天堂を造った。第2次大戦まで、古色蒼然とし荘厳を極め、伽藍のほとんどを備えていたが、戦災と戦後の破壊で旧観を失った。放生池と重要文化財に指定されている放生橋、石階・石垣の一部は遺存し、総門・両脇門とそれにつづく石垣、弁財天堂と天女橋が修復されている。那覇市内バス「当蔵」下車、徒歩すぐ。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

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