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冷泉為相 れいぜい ためすけ

デジタル大辞泉の解説

れいぜい‐ためすけ【冷泉為相】

[1263~1328]鎌倉後期の歌人。藤原為家の子。母は阿仏尼。冷泉家の祖。鎌倉連歌の発展に尽力。家集に「権中納言為相卿集(藤谷集)」がある。藤原為相

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

冷泉為相 れいぜい-ためすけ

1263-1328 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
弘長(こうちょう)3年生まれ。藤原為家の3男。母は阿仏尼(あぶつに)。冷泉家の祖。正二位,権(ごんの)中納言。家領の相続をめぐって異母兄二条為氏(ためうじ)とあらそう。しばしば鎌倉へでかけ,関東歌壇の指導者として重きをなした。「新後撰和歌集」などに歌がある。嘉暦(かりゃく)3年7月17日死去。66歳。初名は為輔。通称は藤谷(ふじがやつ)中納言。
【格言など】しぐれ行く雲まによわき冬の日のかげろひあへずくるる空かな(「風雅和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

冷泉為相

没年:嘉暦3.7.17(1328.8.22)
生年:弘長3(1263)
鎌倉時代の歌人。『続後撰集』『続古今集』選者である藤原為家と,『十六夜日記』などの著者阿仏尼との子。歌道家冷泉家の祖。嫡流である二条家との間に所領の相続をめぐって訴訟があり,そのため鎌倉に下ることが多く,関東歌壇の有力な指導者となった。私選集『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』は,関東での選と推定されている。京極為兼の影響下に京極派風の和歌も詠んだが,おおむね柔軟で平明な歌風を基本とした。他選家集『藤谷和歌集』がある。<参考文献>井上宗雄『中世歌壇史の研究』,福田秀一『中世和歌史の研究』

(渡部泰明)

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世界大百科事典 第2版の解説

れいぜいためすけ【冷泉為相】

1263‐1328(弘長3‐嘉暦3)
鎌倉後期の歌人。藤原為家の男で母は阿仏尼。正二位権中納言に昇り,冷泉家の祖。父の死後,遺領細川荘の相続問題で異母兄の嫡男為氏と争い,京極家の為兼と結束して,歌学面でも本家二条家に対抗した。多くの御子左家文書を相伝,鎌倉歌壇を指導し冷泉歌風を樹立した。その子孫は,現代まで歌道師範家の伝統を保つ。家集《藤谷和歌集》。勅撰集に65首入集。【上条 彰次】

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

冷泉為相
れいぜいためすけ

[生]弘長3(1263).京都
[没]嘉暦3(1328).7.17. 鎌倉?
鎌倉時代後期の公卿,歌人。父は権大納言藤原為家。母は安嘉門院四条 (阿仏尼 ) 。権中納言正二位。冷泉家の祖。為家の晩年,その側室に生れた子であることから父に愛され,所領,文書などを譲られた。これが原因で,父の死後,異母兄の為氏との間に係争を生じた。裁判は為相側の勝訴に終るが,このことから為氏およびその子為世ら二条家とは不和で,同じく二条家と争っていた為兼ら京極家の人々とは親しかった。和歌界においては,ついに熱望していた勅撰集撰者になれず,不遇であった。しばしば京都と鎌倉との間を往復して,武士たちに和歌や連歌を指導するなど,鎌倉文化圏の育成に功績があった。一説に『拾遺風体和歌集』『柳風和歌抄』の編者という。また門弟藤原 (勝間田) 長清が撰した『夫木和歌抄』の命名者であり,資料提供者でもあると考えられる。『藤谷 (ふじがやつ) 式目』は為相が制定した連歌式目。家集に『権中納言為相卿集』,作品に『為相卿千首』『為相卿百首』がある。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

冷泉為相
れいぜいためすけ
(1263―1328)

鎌倉後期の歌人。藤原為家の晩年の子。母は阿仏(あぶつ)。今日も残る冷泉家の祖。異母兄為氏と播磨(はりま)の細川庄(しょう)の相続を争ったことは『十六夜(いざよい)日記』その他で名高い。歌壇的にも為氏・為世(ためよ)の二条家とは疎遠で、伏見(ふしみ)院と為兼(ためかね)を中心とする京極(きょうごく)派に近づき、為兼佐渡配流(1298~1303)の前後、同派の歌合(うたあわせ)にたびたび参加しているが、歌道家の者としていちおう独自の立場をもち、『玉葉集』の撰者(せんじゃ)を望んで1310年(延慶3)に為世と為兼が争った(延慶(えんけい)訴陳)ときには、彼も撰者を望んだ。しかしそれはかなわず、母の開拓した地盤の関東を本拠として鎌倉歌壇の指導者と仰がれて終わった。嘉暦(かりゃく)3年7月17日没。鎌倉歌壇の詠を集めた『拾遺風体(しゅういふうてい)集』や『柳風抄』は彼の撰らしく、『夫木(ふぼく)和歌抄』は門人藤原長清に撰(えら)ばせたとみられる。時宗(じしゅう)二祖他阿真教(たあしんきょう)も歌の門弟で夢窓疎石(むそうそせき)とも歌の交わりがあった。家集『藤谷(とうこく)和歌集』は後人の撰。歌風は穏健、歌論は自由主義的。連歌の式目もつくったらしい。墓は鎌倉藤谷(ふじがやつ)の浄光明寺にある。
 花かをり月霞む夜の手枕(たまくら)に短き夢ぞなほ別れゆく[福田秀一]

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