京極家 (きょうごくけ)
中世初期の歌道家。藤原氏御子左家(みこひだりけ)の一流。為家の子の為教(ためのり)が定家の一条京極亭を伝領し,京極を号したことによる。毘沙門堂家ともいう。為教とその子京極為兼(ためかね)は二条家に対抗して持明院統・西園寺家に親近して立場を確立し,伏見天皇の側近を中心に京極派を形成して歌道の覇権を握る。京極派は中世の勅撰和歌集のうち《玉葉和歌集》(為兼撰),《風雅和歌集》(花園院監)を撰して,その存在を誇示するが,為兼に実子がなく,その没後まもなく断絶する。京極派は為兼の《為兼卿和歌抄》の新風を宗とし,詞にとらわれず,寛平(889-898)以後の歌,とくに万葉の歌を範とし,自由に感覚的に詠むことを主張し,二条派(二条家)の平明で温和な歌風を批判した。
執筆者:新井 栄蔵
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京極家
きょうごくけ
藤原氏北家(ほっけ)の系統を引く御子左(みこひだり)流。鎌倉時代中期に御子左為教(ためのり)が為家(ためいえ)の次男として誕生。祖父藤原定家の居宅一条京極(いちじょうきょうごく)邸を伝領し、家号を京極としたのに始まる。為教は歌道に秀で、その子京極為兼(ためかね)(1254―1332)に歌道を伝授。のちに為兼は西園寺実兼(さいおんじさねかね)の家司(けいし)となり、その縁から伏見天皇や永福門院(えいふくもんいん)を中心とする歌壇の指導者となって勅撰の『玉葉(ぎょくよう)和歌集』の編纂にあずかった。革新的な歌論に基づく為兼は、温和で伝統的な歌道を旨とする本家の二条為世(ためよ)と対立、一時その編纂が中断したが、最終的には為兼の主張が通り、完成した。しかし為兼に実子がなく、彼の没後まもなく同家は断絶した。
[米田雄介]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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京極家
きょうごくけ
鎌倉時代中期~後期の歌道の家筋。藤原為家の子為教 (ためのり) を祖とし,為教の子京極為兼の代に,皇室の持明院統の歌道師範となり,清新な歌風の京極派歌壇を形成した。大覚寺統に庇護される保守的な歌風の二条家と対抗したが,為兼の子孫はふるわず,鎌倉時代の末に断絶した。
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京極家
きょうごくけ
鎌倉時代の歌学の3宗家の一つ
ほかに冷泉・二条両家がある。藤原定家の子為家の2男為教 (ためのり) を祖とし,積極的な写実主義により2家と鋭く対立したが,2代為兼の失脚後断絶した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
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世界大百科事典(旧版)内の京極家の言及
【歌論】より
…その他,阿仏尼の《夜の鶴》,二条為世の《和歌庭訓》等,鎌倉期に書かれた〈歌論〉の数は多いが,文学的に見て意義の認められるものはほとんどない。為家の子の代で,二条家,京極家,冷泉(れいぜい)家と歌の家が三つに分裂し,以降,派閥争いが激化したために,〈歌論〉も本質を理論的に深めるという方向ではなく,派閥意識をあらわにして,他派を攻撃するケースが増えていったからである。たとえば《[野守鏡](のもりのかがみ)》は作者未詳の歌論書であるが,二条派の立場に立って為兼を初めとする京極派を攻撃した書であったし,《延慶両卿訴陳状(えんきようりようきようそちんじよう)》と呼ばれる,《玉葉和歌集》の選者をめぐっての二条,京極両家の厳しい対決を伝える応酬もある。…
【風雅和歌集】より
…真名(まな)序,仮名序,春歌(上・中・下),夏歌,秋歌(上・中・下),冬歌,旅歌,恋歌(1~5),雑歌(上・中・下),釈教歌,神祇歌,賀歌の20巻,約2200首を収める。皇室が持明院統と大覚寺統の2流に分かれて皇位を争った鎌倉時代中期以降,定家―為家と継承された〈歌の家〉[御子左家](みこひだりけ)も分裂し,[二条家]が大覚寺統,[京極家]が持明院統について,勅撰集撰者の地位を争うようになった。このような情勢の中で,建武中興の崩壊後,京都に復権した持明院統京極派によって編まれたのが,《風雅集》である。…
※「京極家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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