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藤原為家 ふじわらの ためいえ

デジタル大辞泉の解説

ふじわら‐の‐ためいえ〔ふぢはら‐ためいへ〕【藤原為家】

[1198~1275]鎌倉前・中期の歌人。定家の長男。別称、中院禅師など。法名、融覚。父の歌風を継ぎ、御子左家(みこひだりけ)を確立。阿仏尼はその後妻。「続後撰集」「続古今集」を撰進歌論書「詠歌一体」、家集「為家集」など。

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百科事典マイペディアの解説

藤原為家【ふじわらのためいえ】

鎌倉前・中期の歌人。藤原定家の嫡男。阿仏尼は側室。官位は権大納言・民部卿。《続後撰集》《続古今集》の撰者。平淡美の理念を説き,のち二条家歌風の代表者とされる。歌論書に《詠歌一体》,家集に《為家集》などがある。
→関連項目あさぢが露十六夜日記菟玖波集二条為氏

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

藤原為家 ふじわらの-ためいえ

1198-1275 鎌倉時代の公卿(くぎょう),歌人。
建久9年生まれ。藤原定家の子。母は西園寺実宗の娘。正二位,権(ごんの)大納言。歌道家をついで後嵯峨(ごさが)院の歌壇に君臨。「続後撰和歌集」「続古今和歌集」を撰進した。阿仏尼を側室とし,子孫は二条・京極・冷泉(れいぜい)家に分立。建治(けんじ)元年5月1日死去。78歳。法名は融覚。通称は中院禅門,民部卿入道。著作に「詠歌一体」,家集に「為家集」など。
【格言など】はやせがはなみのかけこすいはきしにこぼれてさける山ぶきのはな(「続古今和歌集」)

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朝日日本歴史人物事典の解説

藤原為家

没年:建治1.5.1(1275.5.27)
生年:建久9(1198)
鎌倉時代の歌人。『新古今集』『新勅撰集』選者である藤原定家と,内大臣藤原実宗の娘の子。法名は融覚。はやく後鳥羽上皇,さらに順徳天皇に近仕したが,歌道よりも蹴鞠に熱中し,父定家を嘆かせた。承久3(1221)年の承久の乱後,作歌活動も本格化し,後嵯峨院歌壇の中心的存在となり,『続後撰和歌集』(1251)を単独で選進し,また『続古今和歌集』(1265)の選者に名を連ねた。晩年,後妻阿仏尼との間にもうけた冷泉為相を溺愛して,二条,京極,冷泉の歌道家3家分立の因をも残した。家集に『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』などがあり,歌論に『詠歌一体』,歌学に『万葉集佳詞』『古今序抄』が存する。歌風は平淡,温雅を旨とし,中世以降の古典和歌の範となった。<参考文献>安井久善『藤原為家全歌集』,佐藤恒雄「藤原為家の青年期と作品」(『中世文学研究』1976年7月号,77年7月号)

(渡部泰明)

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世界大百科事典 第2版の解説

ふじわらのためいえ【藤原為家】

1198‐1275(建久9‐建治1)
鎌倉前~中期の歌人。藤原定家の嫡男。若年のころ蹴鞠に執心して父を嘆かせたが,承久の乱後は自覚して歌道に精進し,官位も正二位権大納言に昇る。《続後撰集》《続古今集》撰者となり,歌論書《詠歌一体》を執筆。稽古の尊重と平淡美の理念を説き,また制詞を定めるなど,保守的な二条派の基礎を固める結果となった。家集は伝本多く,《為家集》など。勅撰集に332首入集。【上条 彰次】

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大辞林 第三版の解説

ふじわらのためいえ【藤原為家】

1198~1275) 鎌倉前期の歌人。定家の子。「続後撰和歌集」「続古今和歌集」(共撰)の撰者。阿仏尼を後妻とした。歌論書「詠歌一体」。「新勅撰和歌集」以下の勅撰集に三三二首入集。家集「為家集」

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

藤原為家
ふじわらのためいえ

[生]建久9(1198)
[没]建治1(1275).5.1. 京都
鎌倉時代前期~中期の歌人。定家の子。権大納言正二位。 59歳で出家し,法名,融覚。若いときは詠歌を怠り蹴鞠に熱中して父を嘆かせたが,承久の乱で順徳上皇と別れたのち,『為家卿千首』 (1223) を詠むなど作歌に精進し,父の死後はその後継者となり,後嵯峨上皇の院宣を奉じて『続後撰和歌集』を単独で撰進。『続古今和歌集』を他の4人とともに撰進したが,真観らの専横を憤って,実際の作業は嫡男の為氏に一任したという。晩年は側室安嘉門院四条 (阿仏尼 ) とその子の為相らを愛し,死後子孫が3家に分立する原因をつくった。歌風は平淡で温雅。歌論では稽古の重要さ,制詞などを説いた。家集『為家集』,歌論書『詠歌一体 (てい) 』。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

藤原為家
ふじわらのためいえ
(1198―1275)

鎌倉中期の歌人。父は藤原定家(ていか)、母は内大臣西園寺実宗(さいおんじさねむね)の女(むすめ)。権大納言民部卿(ごんだいなごんみんぶのきょう)。法名融覚。中院(なかのいん)禅門、民部卿入道とも称する。当初蹴鞠(けまり)により後鳥羽(ごとば)・順徳(じゅんとく)両院(いん)の寵(ちょう)を被り、定家を悲しませたが、建保(けんぽう)(1213~19)のころより歌作に努め、「為家卿(きょう)千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たに精進し、知家(ともいえ)(蓮性(れんしょう))、光俊(みつとし)(真観)ら反御子左(みこひだり)派の抵抗にもあうが、よくその地位を守りえた。後嵯峨(ごさが)院の撰集(せんしゅう)下命により、1251年(建長3)『続後撰(しょくごせん)和歌集』を撰(えら)び、その後再度単独撰集の命を受けるが、のち、基家、家良(中途死亡)、行家、光俊が追加され、65年(文永2)『続古今和歌集』を撰進した。その子為氏、為教(ためのり)、為相(ためすけ)により歌道家の三家分立となった。
 為家は『風葉和歌集』の撰者と目され、注釈に『古今序抄』『後撰集正義』、家集に『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』、歌学書に『詠歌一体(えいがのいったい)(八雲口伝)』がある。歌風は温雅平明、中道の人として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古(けいこ)」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じてその及ぼした影響は大なるものがあった。絵画にも秀で、和歌との関係には今後なお究められるべき問題が多い。[後藤重郎]

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世界大百科事典内の藤原為家の言及

【御子左家】より

…歌道・蹴鞠の家。藤原道長の第6子権大納言長家(ながいえ)(1005‐64)が醍醐(だいご)天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の邸宅御子左第を伝領して御子左大納言と呼ばれ,以後その家系を御子左家といった。長家の曾孫に俊成(としなり)が出て六条家と対抗し,その子の定家があらわれるにおよび,歌の家としての立場を確立する。一族には寂蓮(じやくれん),俊成女,阿仏尼(あぶつに)など優れた歌人が多い。定家の後,その子の為家が継ぎ穏健正雅の風を立て,六条家を圧倒して歌壇の勢力を一手に握る。…

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