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鎌倉中期の歌人。父は藤原定家(ていか)、母は内大臣西園寺実宗(さいおんじさねむね)の女(むすめ)。権大納言民部卿(ごんだいなごんみんぶのきょう)。法名融覚。中院(なかのいん)禅門、民部卿入道とも称する。当初蹴鞠(けまり)により後鳥羽(ごとば)・順徳(じゅんとく)両院(いん)の寵(ちょう)を被り、定家を悲しませたが、建保(けんぽう)(1213~19)のころより歌作に努め、「為家卿(きょう)千首」を詠じ、慈円より励まされ、歌道家継承の志を新たに精進し、知家(ともいえ)(蓮性(れんしょう))、光俊(みつとし)(真観)ら反御子左(みこひだり)派の抵抗にもあうが、よくその地位を守りえた。後嵯峨(ごさが)院の撰集(せんしゅう)下命により、1251年(建長3)『続後撰(しょくごせん)和歌集』を撰(えら)び、その後再度単独撰集の命を受けるが、のち、基家、家良(中途死亡)、行家、光俊が追加され、65年(文永2)『続古今和歌集』を撰進した。その子為氏、為教(ためのり)、為相(ためすけ)により歌道家の三家分立となった。
為家は『風葉和歌集』の撰者と目され、注釈に『古今序抄』『後撰集正義』、家集に『大納言為家集』『中院集』『中院詠草』『別本中院集』、歌学書に『詠歌一体(えいがのいったい)(八雲口伝)』がある。歌風は温雅平明、中道の人として崇敬され、その「制の詞(ことば)」「稽古(けいこ)」の思想は、御子左歌学の継承であったとはいえ、中世を通じてその及ぼした影響は大なるものがあった。絵画にも秀で、和歌との関係には今後なお究められるべき問題が多い。
[後藤重郎]
(渡部泰明)
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鎌倉前~中期の歌人。藤原定家の嫡男。若年のころ蹴鞠に執心して父を嘆かせたが,承久の乱後は自覚して歌道に精進し,官位も正二位権大納言に昇る。《続後撰集》《続古今集》撰者となり,歌論書《詠歌一体》を執筆。稽古の尊重と平淡美の理念を説き,また制詞を定めるなど,保守的な二条派の基礎を固める結果となった。家集は伝本多く,《為家集》など。勅撰集に332首入集。
執筆者:上条 彰次
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…歌道・蹴鞠の家。藤原道長の第6子権大納言長家(ながいえ)(1005‐64)が醍醐(だいご)天皇の皇子兼明(かねあきら)親王の邸宅御子左第を伝領して御子左大納言と呼ばれ,以後その家系を御子左家といった。長家の曾孫に俊成(としなり)が出て六条家と対抗し,その子の定家があらわれるにおよび,歌の家としての立場を確立する。一族には寂蓮(じやくれん),俊成女,阿仏尼(あぶつに)など優れた歌人が多い。定家の後,その子の為家が継ぎ穏健正雅の風を立て,六条家を圧倒して歌壇の勢力を一手に握る。…
※「藤原為家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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