改訂新版 世界大百科事典 「出雲国造」の意味・わかりやすい解説
出雲国造 (いずものくにのみやつこ)
古代出雲の豪族。出雲東部の意宇(おう)平野を本拠として台頭し,5世紀末から6世紀前半には出雲全域にわたる地域国家を形成し,その王として君臨した。しかし6世紀後半から,まず出雲西部に,ついで意宇平野の東にもヤマト朝廷の制圧が及んでくると,服属して出雲国造とされた。服属のようすは,《出雲国造神賀詞(かむよごと)》にみられるように,出雲国内186社の神々の総意を代表するかたちをとり,大穴持命(おおなもちのみこと)の和魂(にぎたま)を三輪山・葛城山・飛鳥おのおのの神奈備と雲梯(うなて)神社の地に〈皇孫命(すめみまのみこと)の近き守り神〉として鎮座させ,祝いの神宝の品々を献上するというかたちをとっていた。このあと,出雲氏,姓は臣を名のるようになった出雲国造は,采女(うねめ)・トネリを都へ送り,出雲国内に屯倉(みやけ)の設置や各種の部民(べみん)の措定をすすめ,旧領域下に評(こおり)/(ひよう)制の施行も認めるようになった。ところが,出雲国造の地位は,708年(和銅1)に中央から国司として忌部子首(いんべのこおびと)が着任することにより,一つの転機を迎えた。すなわち,出雲国造は意宇郡大領として郡司とされ国内全体の行政権から切り離されることになった。その代り,こののち出雲国造は,出雲諸神および朝廷が保護する出雲大社の祭祀を主宰する特殊な地位だけが認められて出雲国造と称しつづけ,本来の祭神熊野大神をまつる本拠の意宇郡は神領とされた。この間に,氏の祖神も天つ神の天穂日命(あめのほひのみこと)とするようになったらしい。そして国造出雲果安が716年(霊亀2),ついで724年(神亀1)の出雲広嶋いらい,国造の代替りごとに祝(はふり)・神部をひきつれて朝廷に参上し,神賀詞を奏する例がひらかれた。なお,広嶋は《出雲国風土記》の編纂者としても有名である。以後この例は,《延喜式》にみえるような,上京-国造任命-神賀詞奏上-帰国して潔斎1年-上京-神賀詞再奏上という形式にととのえられていった。出雲国造職は,南北朝時代から千家(氏)・北島(氏)両家に分かれてうけつがれるようになり,今日に及んでいる。国造職の相続に当たっての火継(ひつぎ)は,古式を伝える行事として有名である。
執筆者:門脇 禎二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報