18世紀中期に加賀藩で起こった御家騒動。一名大槻騒動。その内容は,6代藩主前田吉徳の寵臣大槻伝蔵が門閥・守旧派に弾劾されて失脚し,流刑地で自刃した事件,および江戸藩邸での茶釜毒入り事件に関連して吉徳の側室真如院(お貞の方)とその男子らが幽閉されて死んだ事件がからめられたもの。大槻伝蔵は足軽の子に生まれ,御居間方坊主から禄高3800石の人持組という上級家臣にまでなった出頭人で,終始吉徳に近侍して寵愛と信頼が深かった。吉徳の代は藩財政の逼迫が深刻化したため厳しい倹約策がつづけられ,農政では改作法の古格への復帰がはかられた。しかし,全国的な華美の風潮と,他方で米価の下落により家中の困窮がはなはだしく,政策の効果はかんばしくなかった。大槻は出頭につれて政務にも携わったが,吉徳は1741年(寛保1)に大槻を若年寄か家老に登用しようとして門閥に反対され,以後は国元の政務の7~8割方まで直裁に移したらしい。しかし,吉徳は生来その器量はなく病気がちであったので,大槻がもっぱら意を体して取りさばいた。それとともに権勢を強め,驕奢にもなった。かくて吉徳-大槻体制に対する批判が生じ,過度の寵愛,大槻の驕奢,大槻1人での政務取りさばき,倹約策のために新格を立てたこと,軍用金に手を付けたことなどが批判された。45年(延享2)吉徳が脚気で死去すると,大槻は看病不行届きの名目で左遷,蟄居(ちつきよ)のうえ,48年(寛延1)4月越中五箇山へ配流された。ところで,その年6月,7月に江戸本郷の藩邸で茶釜に毒が混入していた事件があり,真如院の娘楊姫付年寄浅尾が疑われ,真如院も金沢で縮所へ入れられた。大槻が配所で自刃したのはその2ヵ月後であった。また,真如院の男子利和(勢之佐)と八十五郎も金沢で幽閉され,真如院は本人の情願によって49年2月に縊首され,浅尾は10月に殺害された。利和は59年(宝暦9),八十五郎は61年に死去した。大槻一類の処罰は1754年にすべてを終わった。
この騒動をめぐって真実が明かされぬままのうわさがいくつもあり,吉徳と大槻の男色,真如院と大槻の密通などはそれで,二つの事件の関連も定かではない。また,その後,加賀騒動は,稗史(はいし)(《越路加賀見》《見語大鵬撰》《金城厳秘録(大槻見聞録)》《野狐物語》《北雪美談》など)や芝居脚本などで大いに脚色されて巷間に流布した。
執筆者:高沢 裕一
加賀騒動を材料にした歌舞伎および人形浄瑠璃の作品群をいう。最初にこれを劇化したのは1780年(安永9)奈河亀輔の《加賀見山廓写本(かがみやまさとのききがき)》で大坂初演,のちに明治に実録の脚色が許されてから河竹黙阿弥が1876年に書きおろした《鏡山錦楓葉(かがみやまにしきのもみじば)》は,当時の名優9世市川団十郎,5世尾上菊五郎,初世市川左団次,8世岩井半四郎の共演で,この種の劇としては無類の舞台を作ったが,その後の上演数は多くない。この脚本は,同じ作者が5年目に後日譚を書いてもいるが,これは大阪の勝諺蔵(かつげんぞう)の脚本を改作したものらしい。加賀騒動物として,歌舞伎あるいは人形浄瑠璃では,むしろ派生した作品のほうが著名である。それは別の藩邸に発生した女どうしの不和で,側室が奥方側近の女にはずかしめられて自殺したあと,側室に仕えた侍女が仇討をした事件を,加賀の世界に仮託した作品で,1782年(天明2)江戸の人形浄瑠璃に書きおろされた容楊黛(ようようたい)の《加賀見山旧錦絵(かがみやまこきようのにしきえ)》が歌舞伎に移入されたもので,俗に〈女の忠臣蔵〉と称された。こういう劇は奥づとめの女中の宿下りに見るのにふさわしいので毎年3月に上演されたが,悪役の局岩藤,中老尾上とその召使のお初,この3人の女が大役で,岩藤とお初の試合,岩藤が尾上を草履で打ち,尾上無念の自殺,お初が奥庭で岩藤に復讐する4場面が原則になっている台本である。この岩藤が幽霊になる後日譚には,加賀騒動の藩主暗殺も入っており,河竹黙阿弥の《加賀見山再岩藤(かがみやまごにちのいわふじ)》がそれである。
執筆者:戸板 康二
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
江戸中期、加賀藩で起こった御家(おいえ)騒動。『見語大鵬撰(げんごたいほうせん)』をはじめとする通俗史では、6代藩主前田吉徳(よしのり)の寵臣(ちょうしん)大槻内蔵允(おおつきくらのじょう)(伝蔵)が、吉徳の愛妾(あいしょう)お貞の方(真如院(しんにょいん))と密通し、お貞の産んだ利和(としかず)を藩主とするために、吉徳および7代藩主宗辰(むねとき)を暗殺したということになっている。そこで、重臣前田土佐守直躬(とさのかみなおみ)らが中心となって、8代藩主重煕(しげひろ)の毒殺未遂事件を機に、大槻ら逆臣グループを捕らえ、処刑して大団円ということになっている。
しかし、これらには虚説が多く、実際は江戸中期以後の、いわゆる転換期において、諸藩内部に多くみられた、保守派の重臣と進歩派の下層武士との対立に真の原因があった。高度成長の元禄(げんろく)期(1688~1704)を過ぎた加賀藩では、財政難打開に躍起となった吉徳が、茶坊主あがりの大槻を重用し、経費の節減や上方(かみがた)での金融に独自の腕を振るわせるために、彼に異例の出世をさせたところから、重臣の前田直躬らはひどく大槻を憎み、1745年(延享2)吉徳の急死後、たちまちこれを失脚させたものである。真如院の一件も、隠微な大奥の女たちの争いがこれに絡みついたもので、両者にはこれという罪状もつかめないところから、直躬らが両者の密通・密謀をでっち上げたのではないかという疑いが強い。
大槻は、1748年(寛延1)越中(えっちゅう)五箇山(ごかやま)に流され、同年配所で自殺したが、これをはじめ54年(宝暦4)までに関係者が処刑されて一件落着となったわけである。しかし、なにしろ、当時は御家騒動など事実に取材した通俗史(実録体小説)が大流行の時代であったし、本件などは100万石の大舞台を背景に、才子・美女の登場、そこへ重煕毒殺未遂事件の容疑者、奥女中の浅尾(あさお)の蛇責めなど、猟奇的なおまけまでついているので、大いに有名となり、伊達(だて)、黒田とともに「三大騒動」の一つとして喧伝(けんでん)されたものである。
[若林喜三郎]
『三田村鳶魚著『加賀騒動実記』(1958・青蛙房)』▽『若林喜三郎著『加賀騒動』(中公新書)』▽『『三田村鳶魚全集 第5巻』(1976・中央公論社)』
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※「加賀騒動」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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