(高瀬保)
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幕末期の加賀国宮腰(みやのこし)の富豪の海運業者。姓は清水,幼名茂助,俳号亀巣。1789年(寛政1)家を継いでしょうゆ製造,質商,呉服商等を営んだが,1811年(文化8)古船を買って海運業に転じ,36年(天保7)に隠居した後も経営に当たった。40年,加賀藩天保改革に際して御銀(かね)(御用銀)裁許,御手船裁許となり,以後,おもに回漕業と米相場によって急速に巨富を成した。全国に支店34ヵ所,持船は約200艘を数えたともいう。49年(嘉永2)三男要蔵名義で大規模な河北潟埋立新開(しんがい)に着手したが,漁民の反対を受け,52年潟内に死魚が浮き,魚を食べて中毒死する者も出たため流毒の疑いがかかり,その年9月,その男子や関係者とともに捕らえられた。もっぱら投毒容疑で吟味を受けたが,世上には対ロシア密貿易や南部・津軽材木買占め容疑説もあった。しかしその確証は今もって得られていない。11月21日牢中で病死。
執筆者:高沢 裕一
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江戸後期、加賀の豪商。加賀国宮腰町(金沢市)に生まれ、家業のしょうゆ醸造、質商に従っていたが、39歳のとき120石の古船を入手し海運業を始めた。以降、金沢の外港宮腰町を拠点とし、米の廻漕(かいそう)を中心に松前(北海道)交易に従事したが、加賀藩の御用商人となり、御用船を管理する御手船裁許(おてぶねさいきよ)役に任じられ、海の豪商へと成長していった。最盛期には2500石積四艘(そう)、1500石積六艘、1000石積八艘、800石積二艘、500石積13艘、そのほか小船200余艘を有していた。また、江戸、大坂、兵庫、長崎、新潟、酒田、青森、弘前(ひろさき)、松前、箱館(はこだて)など34港に支店を置き、168人の店員が活動した。1849年(嘉永2)河北潟(かほくがた)の干拓・新田開発を計画、着手したが、その際多くの魚類が死んだことから、投毒の容疑者として投獄、財産を没収された。嘉永(かえい)5年11月21日獄死、80歳であった。投獄の理由には密貿易説など多説があるが、五兵衛を庇護(ひご)することにより多額の利益を得ていた藩が、政策の変更により、巨商を抑制するための見せしめとし、また、五兵衛の莫大(ばくだい)な財産を接収することで窮乏した藩財政を一時的に糊塗(こと)しようとしたものである。
[田中喜男]
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1773.11.25~1852.11.21
江戸後期の海運業者。加賀国宮腰(みやのこし)生れ。質屋を営んでいたが,1811年(文化8)質流れの船を入手し,北前船の経営にのりだした。金沢藩執政の奥村栄実(ひでざね)と結びつくようになり,43年(天保14)御手船裁許を申しつけられている。藩船を差配し,藩米も一手に扱うなど商売は飛躍的に拡張した。持船は1000石積以上の大型船10艘ほどを含め20艘余りと思われる。陸奥国会津藩・同国弘前藩などの御用商人も勤めた。晩年は河北潟(かほくがた)埋立事件により逮捕され,牢死した。
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…30歳のころ加賀の大野村に居住し,大野弁吉と名のる。その非凡な才能は金石(かないわ)の豪商銭屋五兵衛の目にとまり,彼の技術顧問として才能を発揮する。その理化学についての知識は,唯一の遺著《東視窮録》にみられ,エレキテルや火薬の製法などが書かれており,からくりの〈茶くみ人形〉の設計図も描かれている。…
※「銭屋五兵衛」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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