江戸中期の歌舞伎作者。遊泥居,永長堂と号した。生没年不詳。寛政(1789-1801)ごろ没か。奈良に生まれ,奈良,河内に遊んで身が修まらなかったのをしゃれて奈河と称した。遊蕩のすえに作者の世界に入った人である。初世並木正三に師事して劇作を始め,1771年(明和8)初めて中の芝居に名を出し,正三の没した73年(安永2)から約15年間,おもに中の芝居の立作者として40余編の狂言の筆を執った。時代物にすぐれ,なかでも《競(はでくらべ)伊勢物語》(1775),《伊賀越乗掛合羽》(1776),《伽羅(めいぼく)先代萩》(1777),《加賀見山廓写本(さとのききがき)》(1780),《殿下茶屋聚(てんがぢややむら)》(《敵討天下茶屋聚》1781)の5編は《伊賀越》が145日打ち通すという古今まれな大当りをとったのを筆頭にいずれも大入り大当りをとり,初演以後も繰り返し上演された。純然たる歌舞伎狂言を書きえた亀輔は中古歌舞伎作者の祖とされる。また,喜怒哀楽の四情にもとづく四番続きの法則を始めたともいわれるだけに,構成力に富み,実録本や講釈にも題材を仰ぎ,二の替り狂言に敵討を取り組むなど従来の枠組みを打ち破る大胆自在な発想のもと,堅実,重厚な構成をかまえ,趣向をめぐらし,役者にそれぞれ仕どころを配して大いに成功した。ただ何分にも筋が細密すぎてくどく,作意過剰の欠点もあって,後には脚色を変えたり他狂言と綯交(ないま)ぜにして上演するようになったが,彼の作が以後の時代狂言に与えた影響は大きかった。世話物では《台頭縁色幕(だいがしらゆかりのいろまく)》が後に脚色を変えて演じられる程度で,さほどすぐれた作はない。亀輔には有力な金主が付いており一時は総支配人と称したくらいで,後世の作者のように役者の顔色をうかがうこともなく,一座の顔ぶれ,役者の抱え入れまで差配した。彼の多能ぶりは自作を直ちに読本浄瑠璃として刊行したり,歌舞伎講釈をみずから興行する面に現れているが,難波新地の料亭吉田屋に四季の趣向を盛った作庭をして人寄せしたり,舶来の珍品を蒐集して〈唐の開帳〉を興行するなど世俗の才にも富み,異才の感が強い。
なお2世は奈河篤助(1764-1842)がついだ。
執筆者:青木 繁
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(上野典子)
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歌舞伎(かぶき)作者。亀助とも。3世まであるが初世が有名。
[古井戸秀夫]
生没年不詳。大坂の歌舞伎作者の姓、奈河の祖で、奈良に生まれ河内(かわち)を放浪したために奈河を名のったと伝えられる。安永(あんえい)期(1772~81)の大坂で初世並木五瓶(ごへい)とともに活躍。丸本の影響が強かった大坂において、講釈などによった純歌舞伎の名作を次々と書く。天明(てんめい)期(1781~89)には「総支配人」と称し興行全般を管理するようになった。代表作は『松下嘉平治連歌評判(まつしたかへいじれんがのひょうばん)』『競伊勢物語(はでくらべいせものがたり)』『伊賀越乗掛合羽(いがごえのりかけがっぱ)』『伽羅先代萩(めいぼくせんだいはぎ)』『加々見山廓写本(さとのききがき)』『大願成就殿下茶屋聚(たいがんじょうじゅてんがちゃやむら)』など。門下に奈河七五三助(しめすけ)がおり、その門弟奈河篤助(とくすけ)が一時2世を名のる。3世は嘉永(かえい)(1848~54)ごろの作者。
[古井戸秀夫]
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…通称《先代萩》。奈河亀輔作。1777年(安永6)4月大坂嵐七三郎座(中の芝居)初演。…
※「奈河亀輔」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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