松山城(読み)マツヤマジョウ

デジタル大辞泉 「松山城」の意味・読み・例文・類語

まつやま‐じょう〔‐ジヤウ〕【松山城】

愛媛県松山市にある旧松山藩の城。慶長7年(1602)から同19年にかけて加藤嘉明が築城。蒲生氏に続いて松平(久松)氏が在城。のち、天守閣は焼失したが再建。勝山城伊予松山城
岡山県高梁たかはし市にある旧備中びっちゅう松山藩の城。仁治元年(1240)創築。江戸時代に入り、代官小堀政一が修築。天守閣が現存。高梁城備中松山城

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精選版 日本国語大辞典 「松山城」の意味・読み・例文・類語

まつやま‐じょう‥ジャウ【松山城】

  1. 愛媛県松山市にある平山城。慶長七年(一六〇二)加藤嘉明が着工、同一九年ほぼ完成。のち蒲生氏を経て久松(松平)氏が入封。現存の天守閣は嘉永五年(一八五二)以降の再建で、ほかに門、櫓、石垣、堀などが残っている。国重要文化財国史跡。伊予松山城。

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日本歴史地名大系 「松山城」の解説

松山城
まつやまじよう

[現在地名]松山市丸之内

加藤嘉明が慶長七年(一六〇二)正月に築城の工を起こし、蒲生氏を経て、寛永一二年(一六三五)松平定行の入城以来明治維新まで、松山藩主松平氏の居城であった。重要文化財。

慶長六年に、加藤嘉明は徳川家康に対してかつ山に築城する旨を請願して、許可を受けた(内山家記、近江水口加藤家譜)。嘉明は本丸の位置について、あま山と御幸寺みきじ山とかつ山の三ヵ所を候補地として申請したところ、勝山が許可されたとの説話がある(松山俚人談)。この伝承は広く世に知られているが、これは伝説であって歴史上の根拠は発見されない。また勝山は南北の二峰あるいは三峰に分れていたが、築城に際して谷の部分を埋めたとの伝説がある。谷にあたるいまの郷土芸術館付近を小谷おたにと称したこと、またこの地にかつて小谷山雲祥寺があったことから想像すると、その埋立工事の規模の大小は別問題としても、この説話は信用してよいであろう。

翌七年正月一五日の吉日を卜して、勝山築城の工を起こした。普請奉行となってその局に当たったのは、足立半右衛門重信であった。まず本丸・二の丸・堀之内(三の丸を含む)の位置が決定され、石塁の構築に全力が集中された。この時使用された石材は、付近の山地から積み出されたものも少なくなかったであろうが、すでに廃城となっていた湯築ゆづき城および伊予郡正木まさき(松前)城から運搬されたものも多かった。

次に城郭の構造をみると山上(一三一・一メートル)に天守閣を中心とする本丸、西部の山麓に二の丸、さらにその西方に堀之内があり、二の丸の一部および堀之内に堀をめぐらした。北の山麓には出丸としてきたくるわを、東の山麓に東ノ郭を築いて防備にあてた。したがって、平山城の形態をもち、わが国の城郭のなかでも典型的なものといわれる。その広さは、

<資料は省略されています>

となっていて(明治五年五月愛媛県報告書)、これに東ノ郭の面積二町六段一畝一歩(東雲学園記録)を加えると、総面積二六町二畝一六歩となる。

〔本丸〕

天守閣・小天守閣などを含む本丸の中心となる重要な部分を本壇という。本壇の広さは「東西三十六間、南北三十間二尺」(松山秘録)となっている。

天守閣は嘉明の創建当時は五層であったが、松平定行によって寛永一六年七月に幕府の許可を得て三層に改築された。ところが天明四年(一七八四)元旦に天守閣に落雷があり、火災のために本丸の主要部分を焼失した。その後、歴代藩主は城郭の復興に腐心したが、容易に実現しなかった。

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日本の城がわかる事典 「松山城」の解説

まつやまじょう【松山城〈埼玉県〉】

埼玉県比企郡吉見町にあった室町時代から戦国時代にかけての平山城(ひらやまじろ)。菅谷館跡(比企郡嵐山町)、杉山城跡(同町)、小倉城跡(比企郡ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに「比企城館跡群」として一括で国指定史跡となっている。ふもとを流れる市野川を天然の堀として、丘上に建設された城郭である。高低差をうまく活用した曲輪(くるわ)の配置と城域の面積の50%を占めるといわれる大規模な空堀などから難攻不落の城といわれていた。松山城には小野篁、平信清(淳和天皇の第2皇子)、源経基、源頼信新田義貞などを築城者とする伝承・伝説があるが、詳細は不明である。室町時代前期の1399年(応永6)に、比企郡一帯を領有していた扇谷上杉氏被官の上田友直により本格的な城として整備され、上野国を拠点とする山内上杉氏や、下総国古河を拠点とする古河公方に対する前線拠点となった。その後、相模国の北条氏の勢力が拡大し、武蔵国への侵攻が激化すると、北条氏に対する備えの城として重視された。こうしたことから、戦国時代には松山城を舞台に激しい攻防や争奪が繰り返された。1537年(天文6)、北条氏綱は扇谷上杉氏が本城としていた川越城(河越城、川越市)を落城させ、その余勢をかって松山城に攻撃を加えた。扇谷上杉氏は難波田弾正憲重らの活躍によりこれを撃退して城を守り、河越城を失った扇谷上杉朝興は松山城に居城を移した。この攻防は、城将の憲重と北条方の攻将の山中主膳の間で和歌問答が交わされたことに由来して「松山城風流合戦」と呼ばれる。その後、朝興から家督を継いだ扇谷上杉朝定は川越城の奪還を試み、関東管領の山内上杉憲政、古河公方の足利晴氏とともに大軍で川越城を囲んだが、1546年(天文15)の河越夜戦で大敗を喫して上杉朝定は戦死、扇谷上杉氏は滅亡した。松山城は、この河越夜戦に勝利した北条勢により奪われたが、上田朝直や太田資正がこれを奪回した。しかし、その後上田朝直が北条氏に寝返ったために、松山城は再び北条方の城になった。1561年(永禄4)、越後の上杉政虎(上杉謙信)は松山城を攻略して岩槻城主の太田資正を城代にしたが、1563年(天文5)には北条氏康と武田信玄の連合軍が攻撃して落城させ、北条方の城となった。その後しばらくして、上田氏も城主として復帰している。1590年(天正18)の豊臣秀吉の北条氏攻め(小田原の役)では、豊臣方の前田利家や上杉景勝、真田昌幸らの大軍に包囲され落城した。徳川家康が関東に入部すると、松山城には松平家広が1万石で入城して、松山藩(のちに3万石)が成立した。しかし、1601年(慶長6)に家広は若くして死去したため異父弟の忠頼が継いだが、忠頼が遠江国浜松城5万石に加増・移封されたことにより松山藩は廃藩となり、松山城も廃城となった。その後、比企地域の旧松山藩領は川越藩領に組み入れられている。1806年(文化3)、川越藩主の松平直克前橋藩に移封となり、その際、比企6万石は前橋藩の飛び地となり、これを治める陣屋が必要となったが、松山城跡は利用されず、松山城跡の西に松山陣屋(東松山市松葉町)が新設された。城跡は今日、城山と呼ばれているが、城山には空堀の遺構が比較的良好な状態で現存している。東武東上線東松山駅から徒歩約25分。または同駅からバスで百穴下車、徒歩約2分。◇全国各地にある同名の城と区別するため、武州松山城あるいは武蔵松山城と呼ばれることがある。

まつやまじょう【松山城〈愛媛県〉】

愛媛県松山市にあった平山城(ひらやまじろ)。国指定史跡。日本城郭協会選定による「日本100名城」の一つ。松山平野の中央部に位置する勝山(標高132m)に築城、壮大な石垣の上に天守、小天守のほか多数の櫓(やぐら)がそびえる。関ヶ原の戦いで戦功があった加藤嘉明(よしあき)は、1602年(慶長7)勝山の地形を利用して新城の建設に着手した。勝山は、南北朝時代に南朝方が砦を築き、戦国時代には河野氏が前衛基地とするなど、重要な拠点であった。翌年、城は建設中にもかかわらず、嘉明は居城の松前城(まさきじょう)から勝山に移り、この城を松山城と命名した。嘉明の会津転封後の1627年(寛永4)、蒲生忠知(がもうただとも)が入封、二の丸などの整備を行った。嗣子(しし)がないため蒲生氏が断絶になったあと、1635年(寛永12)松平(久松)定行(さだゆき)が藩主となり、明治維新まで235年間つづいた。1784年(天明4)の落雷で焼失した天守は、1852年(嘉永5)に再建された。現在、城跡は史跡公園となり、天守のほか櫓、門、塀、石垣、堀が現存する。また、昭和時代の放火や空襲などで失った建築物は、ほとんどが復元されている。JR予讃本線松山駅から市内電車10分で大街道下車、徒歩5分。ロープウェイで山上へ。◇伊予松山城(いよまつやまじょう)、金亀城(きんきじょう)、勝山城(かつやまじょう)ともいう。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「松山城」の意味・わかりやすい解説

松山城(愛媛県)
まつやまじょう

江戸期の城。愛媛県松山市丸之内にある。南北朝期には南朝方の忽那(くつな)氏らの砦(とりで)、戦国期には河野(こうの)氏の支城が置かれていた。近世城郭として出発したのは関ヶ原の戦い後であり、1602年(慶長7)加藤嘉明(よしあき)が松前(まさき)城から城を移し築城に着手し、翌年に移ってからである。城は標高131メートルの勝山山頂に本丸を、中腹に二の丸、山麓(さんろく)に三の丸を配す平山城(ひらやまじろ)で、城主居館は三の丸に置かれていた。05年に本丸と天守閣が完成し、07年に三の丸ができあがっている。27年(寛永4)に嘉明は会津に転じ、かわって蒲生忠知(がもうただちか)が入ったが34年に急死し、以後松平(久松(ひさまつ))定行(さだゆき)が15万石で入封し、世襲して明治維新に至った。現存の三層天守閣は雷火で焼失したため、1820~54年(文政3~安政1)に再建されたものである。現在天守閣、野原櫓(のはらやぐら)、乾(いぬい)櫓、隠門続(かくしもんつづき)櫓、一の門南櫓、二の門南櫓のほか門が七つ現存している。

[小和田哲男]



松山城(岡山県)
まつやまじょう

鎌倉期~江戸期の城。岡山県高梁(たかはし)市内山下(うちさんげ)にあり、備中(びっちゅう)松山城といわれている。大松(おおまつ)山、天神(てんじん)、相畑(あいはた)、小松(こまつ)山、前山(まえやま)の五つの峰からなる臥牛山(がぎゅうざん)に築かれた山城(やまじろ)で、1240年(仁治1)この地の地頭(じとう)秋庭重信(あきばしげのぶ)が大松山に築城したのが初めという。戦国期には三村氏がこの城を根拠に発展した。江戸期の城は小松山山頂(標高420メートル)を本丸とし、山上に二の丸、三の丸を構え、山麓(さんろく)に御根古屋(おねごや)という藩主の居館・役所が置かれていた。水谷(みずのや)、安藤、石川、板倉氏とかわり幕末に至った。天守閣のほか本丸二層櫓(やぐら)、三の平櫓、土塀、石垣が現存する。

[小和田哲男]


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百科事典マイペディア 「松山城」の意味・わかりやすい解説

松山城【まつやまじょう】

岡山県高梁(たかはし)市,臥牛山の頂上にある山城。中世から戦略上の拠点として知られ,1600年小堀遠州が改修。天守は天和年間に水谷勝宗が造営,山頂の岩盤の上に建てた2重2階の小さいもの。この山はニホンザルの生息地としても知られる。→

松山城【まつやまじょう】

愛媛県松山市,勝山の上に建てられた平山城で,金亀城,勝山城とも。1603年加藤嘉明が築城,1605年5層の天守が完成。1642年松平定行が3層の天守に改修,1784年焼失,1854年に復旧。南に小天守,西に南北2基の隅櫓(すみやぐら)を従えた連立式であったが,1933年大天守を残して焼失。→
→関連項目松山[市]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「松山城」の意味・わかりやすい解説

松山城[愛媛]
まつやまじょう[えひめ]

愛媛県松山市勝山に立つ平山城 (ひらやまじろ) 。勝山城,金亀城ともいわれる。慶長7 (1602) 年加藤嘉明によって築城が着手され,同 10年には5層の天守閣と本丸,同 12年に三の丸が完成。寛永4 (27) 年嘉明が会津若松に移封。次いで蒲生氏,寛永 12年からは松平 (久松) 氏の居城となり,同 19年には3層の天守に改修された。しかし,天明4 (1784) 年雷火のため天守閣が焼失。現存するものは安政1 (1854) 年に再建されたもの。その後も戦災などで一部を焼失したが,連立式城郭の代表的なものであった。

松山城[岡山]
まつやまじょう[おかやま]

岡山県高梁市にある山城。別名,備中松山城,高梁城。高梁川の東岸,大松山,天神 (てんじん) ノ丸,前山,小松山の4峰から成る臥牛山山頂にある。仁治1 (1240) 年この地の地頭だった秋葉重信が大松山に築城したのが最初。江戸時代には小松山山頂を本丸とし,池田,水谷,安藤,石川,板倉の諸氏の居城となった。現在の城は元和6 (1620) 年水谷勝宗の築城に成るもの。本丸,二の丸,三の丸の構をもち,2層の天守閣となっていた。現在,天守,二重櫓 (やぐら) ,大小の曲輪跡,石垣,土塀などが残っており,重要文化財の指定を受けているほか,城跡は史跡に指定されている。

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[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション 「松山城」の解説

まつやまじょう【松山城】

愛媛の米焼酎。減圧蒸留した原酒を樫樽で長期貯蔵する。原料は米、米麹。アルコール度数25%、40%。蔵元の「桜うづまき酒造」は明治4年(1871)創業。清酒「桜うづまき」の醸造元。所在地は松山市八反地。

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事典 日本の地域遺産 「松山城」の解説

松山城

(愛媛県松山市丸之内1)
美しき日本―いちどは訪れたい日本の観光遺産」指定の地域遺産。

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事典・日本の観光資源 「松山城」の解説

松山城

(愛媛県松山市)
日本100名城」指定の観光名所。

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世界大百科事典(旧版)内の松山城の言及

【松山】より

…戦国初期には市ノ川を隔てた対岸の比企丘陵先端(横見郡。現在の比企郡吉見町)に築かれた扇谷(おうぎがやつ)上杉方の松山城主として太田氏,上田氏,難波田氏などが見え,後期には後北条氏の領国となり直属の松山衆が駐留し,ついで上田氏が松山城主となる。その支配領域は松山領と呼ばれ,ほぼ松山城・松山本郷以西の比企郡域に及ぶ。…

【松山[市]】より

…松山を中心とした鉄道網は現在,伊予鉄道によって3線が開設されており,市内電車も伊予鉄道により運行されている。 市内には松山城(史)をはじめ史跡が多く,日本最古の温泉といわれる道後温泉が中心部から市電で15分のところにあり,四国最大の温泉観光地となっている。松山城は,平野にそびえているため松山平野の交通標識ともなり,とくに夜景が美しい。…

※「松山城」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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