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北条霞亭 ほうじょう かてい

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美術人名辞典の解説

北条霞亭

江戸後期の儒者。志摩生。道有の長男。名は譲、字は子譲・景陽、通称は譲四郎、別号を天放生。儒学を皆川淇園、医学を広岡文台に学び、のち亀田鵬斎の塾に入る。伊勢内宮林崎書院院長・備後廉塾都講を歴任後、福山藩に招かれてその儒官となった。文政6年(1823)歿、44才。

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デジタル大辞泉の解説

ほうじょう‐かてい〔ホウデウ‐〕【北条霞亭】

[1780~1823]江戸後期の漢詩人。志摩の人。名は襄。字(あざな)は子譲・景陽。霞亭は号。京都で皆川淇園(きえん)に、江戸で亀田鵬斎(ほうさい)に学ぶ。備後の菅茶山に招かれ廉塾の塾頭、次いで福山藩藩儒となる。著作に「霞亭摘藁」「霞亭渉筆」など。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

北条霞亭 ほうじょう-かてい

1780-1823 江戸時代後期の儒者。
安永9年9月5日生まれ。京都で皆川淇園(きえん)にまなび,のち江戸の亀田鵬斎(ほうさい)の塾にはいる。文化5年伊勢(いせ)(三重県)の林崎(はやしざき)文庫長。10年備後(びんご)(広島県)の菅茶山(かん-ちゃざん)にまねかれ,廉塾の塾頭となる。文政2年備後福山藩につかえた。文政6年8月17日死去。44歳。志摩(三重県)出身。名は襄。字(あざな)は子譲,景陽。通称は譲四郎。別号に天放生。詩集に「霞亭摘藁」「薇山三観」など。
【格言など】学は己と人とに益なくば尚学ばざるが如し(福山藩藩校弘道館での教導理念)

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朝日日本歴史人物事典の解説

北条霞亭

没年:文政6.8.17(1823.9.21)
生年:安永9.9.5(1780.10.2)
江戸中・後期の漢詩人。名は襄,字は子譲,景陽。通称,譲四郎。号は霞亭,天放生。志摩国(三重県)的矢の儒医北条道有の長男。寛政9(1797)年京都に遊学し,儒を皆川淇園に,医を広岡文台に学び,のち江戸に赴いて亀田鵬斎の塾に寄寓した。帰郷後,伊勢神宮内宮の林崎文庫の長となったが,文化8(1811)年京都嵯峨に隠棲。10年,備後神辺の菅茶山に招かれて廉塾の都講となり茶山の姪井上敬と結婚。文政2(1819)年福山藩(広島県)に儒者として聘せられ,江戸で病没。友人頼山陽の墓碣銘によれば,痩躯で鼻が高く,眼に光があり,風貌は洒脱,酒を好んだという。著書に『霞亭摘藁』『嵯峨樵歌』『歳寒堂遺稿』など。<参考文献>森鴎外『北条霞亭

(揖斐高)

出典|朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版
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世界大百科事典 第2版の解説

ほうじょうかてい【北条霞亭】

1780‐1823(安永9‐文政6)
江戸後期の儒学者。名は譲,字は子譲,譲四郎と称する。志摩の的矢(まとや)(現,三重県志摩郡磯部町)の人。18歳で京都に遊学,のち江戸の亀田鵬斎の塾に学び,帰郷後伊勢の林崎文庫長となる。1813年(文化10)備後神辺(かんなべ)の菅茶山を訪ね,請われて廉塾の都講となる。19年(文政2)福山藩から扶持を与えられ,2年後大目付格儒者となり,江戸詰を命ぜられたがまもなく病没。著書は《霞亭摘稿》《霞亭渉筆》《嵯峨樵歌》など。

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大辞林 第三版の解説

ほうじょうかてい【北条霞亭】

1780~1823) 江戸後期の漢詩人。志摩の人。名は襄、字あざなは子譲・景陽、霞亭は号。京や江戸で学んだ後、菅茶山に迎えられて廉塾の塾頭となり、ついで福山藩儒となった。著「霞亭摘藁」「霞亭渉筆」ほか。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

北条霞亭
ほうじょうかてい
(1780―1823)

江戸後期の儒者、漢詩人。名を譲(じょう)、字(あざな)を子譲、号を霞亭、通称を譲四郎という。志摩(三重県)的矢(まとや)の医者の家に生まれる。京都に出て儒学を皆川淇園(みながわきえん)に学び、ついで江戸の亀田鵬斎(かめだほうさい)の塾で学んだ。1808年(文化5)伊勢(いせ)神宮内宮の林崎(はやしざき)文庫の長に迎えられたが、ほどなく辞して京都の嵯峨(さが)に隠棲(いんせい)した。その後、菅茶山(かんさざん)に招かれ、備後(びんご)(岡山県)神辺(かんなべ)の廉塾(れんじゅく)の塾頭になった。また福山藩の儒者に取り立てられたが、江戸詰御用として江戸滞在中に病没した。東京・巣鴨(すがも)の真性寺に墓が現存する。『嵯峨樵歌(さがしょうか)』(1812)や『薇山三観(びざんさんかん)』(1820)などの詩集がある。[揖斐 高]
『中村真一郎著『頼山陽とその時代』(1971・中央公論社/中公文庫) ▽『北条霞亭』(『鴎外全集18』所収・1973・岩波書店)』

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