日本大百科全書(ニッポニカ) 「北茂安」の意味・わかりやすい解説
北茂安
きたしげやす
佐賀県東端、三養基(みやき)郡にあった旧町名(北茂安町(ちょう))。現在は、みやき町の中部を占める地域。東隣の福岡県久留米(くるめ)市街とは筑後(ちくご)川の豆津(まめづ)橋で通じる。旧北茂安町は、1965年(昭和40)町制施行。2005年(平成17)中原(なかばる)、三根(みね)2町と合併して、みやき町となった。北部に花崗(かこう)岩や洪積層の丘陵・台地が分布し、南に筑後川の氾濫原(はんらんげん)が広がる。北茂安の名は、江戸初期に千栗土居(ちりくどい)などの築堤工事に功があった佐賀藩重臣成富兵庫茂安(なりとみひょうごしげやす)の名にちなむ。開発は古く、沖積低地には古代の条里制が施行され、また『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』にみる物部(もののべ)郷は、台地末端の板部(いたべ)にある新羅(しらぎ)遠征軍ゆかりの物部神社一帯とされる。江口の工業団地や石貝(いしがい)住宅団地などの形成や、通勤、野菜園芸などを通して、久留米の郊外の性格が強まっている。東端の筑後川沿いに国道264号が走る。北部の皿山(さらやま)などには、白石焼(しらいしやき)ほかの窯元がある。旧河道古川(ふるかわ)に近い丘陵末端の千栗八幡宮(ちりくはちまんぐう)は、九州五社八幡の一つで、9月放生会(ほうじょうえ)の行列浮立(ぶりゅう)や、年の吉凶を占う3月の「お粥(かゆ)だめし」の神事などで有名。
[川崎 茂]
『『北茂安町史』(2005・北茂安町)』