安土桃山時代の茶人。利休の長男。初名は紹安。号は可休斎,のち眠翁。義弟の少庵と同年であり,その茶風は〈柔の少庵〉と比して〈剛の道安〉と評された。茶法を父利休に学び,その技量は利休を感嘆させるほどであったが,ついに利休のあと千家第2世を継ぐこともなく,先妻の子であった関係もあってか,晩年は特に不遇であった。利休,少庵とともに豊臣秀吉の茶道役として仕えていたが,利休賜死後は少庵と同様に京都を離れた。しかし,会津若松の蒲生氏郷にかくまわれた少庵と異なり,流寓の地は飛驒とも阿波ともいわれて定かでない。少庵と相前後して帰洛し,紹安を道安に改称する。茶人としての道安は,京都伏見での茶匠としての活躍や,1601年(慶長6)細川三斎からその領国豊前で300石の知行を与えられたことなどが知られる。また道安の茶は,小座敷に突上窓(天窓)をあけたり,土器であった灰匙(はいさじ)を金にして柄をつけたり,四畳半座敷の床を4尺3寸にちぢめたり,客座,点前座の間に中柱を立て仕切壁を付けて火炉口をあける道安囲いを構成したりというように,つねに作意工夫が凝らされている。
執筆者:筒井 紘一
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(戸田勝久)
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安土(あづち)桃山~江戸初期の茶人。千利休(りきゅう)の子。母は宝心妙樹(法名)。少庵(しょうあん)は義理の兄弟で同年齢。初め紹安と称し、眠翁と号す。青年期、父の再婚が原因でか、約10年間茶の湯から離れたとみられるふしがあるが、復帰後は父とともに茶頭(さどう)として豊臣(とよとみ)秀吉に仕えた。1591年(天正19)利休賜死の際、阿波(あわ)(徳島県)に逃れたとも、飛騨(ひだ)(岐阜県)に流されたともいうが、不詳。その後、秀吉の茶頭に復帰し伏見(ふしみ)(京都府)で従事したが、98年(慶長3)秀吉が没したことにより堺(さかい)(大阪府)に戻り、慶長(けいちょう)12年、この地で没した。よって利休の茶統は京都の少庵・宗旦(そうたん)父子に伝えられた。
[村井康彦]
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