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千少庵 せんの しょうあん

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美術人名辞典の解説

千少庵

安土桃山・江戸前期の茶人。利休の次男、宗旦の父。通称は吉兵衛・四郎左衛門、少庵は号。利休自刃後、会津若松藩主蒲生氏郷に庇護されていたが、千家再興が許されたのち、不審庵に住。典雅で柔らかな茶風といわれる。慶長19年(1614)歿、69才。

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デジタル大辞泉の解説

せん‐しょうあん〔‐セウアン〕【千少庵】

[1546~1614]安土桃山時代の茶人。和泉の人。利休の女婿。母は利休の後妻宗恩。子は宗旦。法号、宗淳。千家を再興、利休の死後不審庵を継いだ。

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百科事典マイペディアの解説

千少庵【せんのしょうあん】

安土桃山時代の茶人。千利休の次男。千宗旦の父。通称は四郎左衛門。宗淳とも号した。茶風は温柔で利休茶道の極意を伝え不審庵2世(利休は不審庵1世)を唱えた。同年の義兄である千道安が〈剛の道安〉と呼ばれたのに対し,〈柔の少庵〉と称された。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

千少庵 せん-しょうあん

1546-1614 織豊-江戸時代前期の茶人。
天文(てんぶん)15年生まれ。千利休婿養子。宮王(みやおう)三郎の子。利休切腹後,会津(あいづ)の蒲生氏郷(がもう-うじさと)をたよる。文禄(ぶんろく)3年ごろ豊臣秀吉にゆるされて京都にもどり,不審庵をついで千家を再興した。慶長19年9月7日死去。69歳。和泉(いずみ)(大阪府)堺出身。通称は吉兵衛,四郎左衛門。法号は宗淳(そうじゅん)。

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朝日日本歴史人物事典の解説

千少庵

没年:慶長19.9.7(1614.10.10)
生年:天文15(1546)
安土桃山・江戸初期の茶湯者。堺の小鼓打ち宮王三郎と宗恩(のち千利休の後妻)の子。妻は利休の娘亀(一説にちゃう)。宗旦,山科宗甫の父。通称吉兵衛,法号は宗淳。利休賜死後の千家再興の任に当たり,傑出した侘び茶人としての宗旦を育成して,千家茶道の完成に貢献した。8歳で父の死にあい,母宗恩と共に利休の庇護を受ける。天正8(1580)年ごろ大徳寺門前に住み茶湯者として自立。利休自刃ののち,会津の蒲生氏郷をたより,文禄3(1594)年赦免。この間茶室麟閣(会津若松市)を造る。京都に戻り,千家の相続者として本法寺前に利休屋敷を復興した。宗旦に家督を譲ったのち,湘南亭(京都・西芳寺)を建て隠退したと考えられる。墓所は大徳寺聚光院。<参考文献>『堺市史』,今日庵編『少庵宗淳居士』

(戸田勝久)

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世界大百科事典 第2版の解説

せんのしょうあん【千少庵】

1546‐1614(天文15‐慶長19)
安土桃山時代の茶人,千家第2世。利休の後妻宗恩の連れ子。実父は宮王(みやおう)三郎三入といわれる。名は吉兵衛,四郎左衛門。少庵宗淳と号す。利休の実子道安とは同年の生れ。利休の娘亀女をめとり宗旦の誕生をみたあと,上洛して茶人としての生活をはじめた。その茶風は,道安の剛に対する少庵の柔と評される。利休の茶法をよく学び,豊臣秀吉の茶道役として仕えたが,利休賜死の後は会津若松の蒲生氏郷を頼って流寓。1592年(文禄1)には氏郷や徳川家康らの取りなしによって赦免され,京都上京(かみぎよう)の本法寺前に屋敷を与えられて,還俗した宗旦とともに千家の再興に力を尽くす

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大辞林 第三版の解説

せんしょうあん【千少庵】

1546~1614) 安土桃山時代の茶人。初名宗淳。利休の後妻宗恩の連れ子。利休の女婿。宗旦の父。千家を再興し、利休第二世を名乗った。義兄道安の剛の茶に対し、柔の茶と伝えられる。

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

千少庵
せんのしょうあん
(1546―1614)

安土(あづち)桃山~江戸初期の茶人。千利休(りきゅう)の義理の子で女婿(じょせい)。実父は宮王(みやおう)三郎三入(さんにゅう)。母宗恩が利休と再婚し千家に入る。利休の実子道安(どうあん)とは同年齢。遅くとも1580年(天正8)以前、堺(さかい)(大阪府)から京都に移り、初め紫野大徳寺門前、ついで二条衣棚(ころもだな)、のち本法寺門前に住む。利休の娘(母不詳)亀(法名喜室宗桂)と結婚、宗旦(そうたん)らをもうける。91年利休賜死後、身柄を会津若松(福島県)の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとに預けられたが、赦免後京都に戻り、本法寺門前において千家を再興した。[村井康彦]

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世界大百科事典内の千少庵の言及

【表千家流】より

…代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。…

【不審庵】より

…また表千家流家元の庵号として呼ばれる。利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。…

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