安土桃山時代の茶人,千家第2世。利休の後妻宗恩の連れ子。実父は宮王(みやおう)三郎三入といわれる。名は吉兵衛,四郎左衛門。少庵宗淳と号す。利休の実子道安とは同年の生れ。利休の娘亀女をめとり宗旦の誕生をみたあと,上洛して茶人としての生活をはじめた。その茶風は,道安の剛に対する少庵の柔と評される。利休の茶法をよく学び,豊臣秀吉の茶道役として仕えたが,利休賜死の後は会津若松の蒲生氏郷を頼って流寓。1592年(文禄1)には氏郷や徳川家康らの取りなしによって赦免され,京都上京(かみぎよう)の本法寺前に屋敷を与えられて,還俗した宗旦とともに千家の再興に力を尽くす。晩年徳川氏に仕えて新知500石を与えられたとも,また早くに隠居して利休の孫宗旦の後見をしたともいわれる。千家の中では難しい立場にあって利休の茶を受け継ぎ,その遺跡不審庵をまもり,発展を期して後世に道統をひらこうとした功労は,地味だが大きい。大徳寺の和尚たちと親交し,詩歌,俳句をよくしたと伝えられる。
執筆者:筒井 紘一
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(戸田勝久)
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安土(あづち)桃山~江戸初期の茶人。千利休(りきゅう)の義理の子で女婿(じょせい)。実父は宮王(みやおう)三郎三入(さんにゅう)。母宗恩が利休と再婚し千家に入る。利休の実子道安(どうあん)とは同年齢。遅くとも1580年(天正8)以前、堺(さかい)(大阪府)から京都に移り、初め紫野大徳寺門前、ついで二条衣棚(ころもだな)、のち本法寺門前に住む。利休の娘(母不詳)亀(法名喜室宗桂)と結婚、宗旦(そうたん)らをもうける。91年利休賜死後、身柄を会津若松(福島県)の蒲生氏郷(がもううじさと)のもとに預けられたが、赦免後京都に戻り、本法寺門前において千家を再興した。
[村井康彦]
…代々宗左を名のる。利休の切腹によって千家は一時断絶したが,会津若松の蒲生氏郷に預けられていた利休の子千少庵が豊臣秀吉に召し出され,本法寺前町に屋敷が与えられて千家の再興がはかられ,千家2世となった。それとともに大徳寺の喝食(かつしき)として修行していた少庵の子千宗旦は還俗し,千家3世を継承することとなった。…
…また表千家流家元の庵号として呼ばれる。利休の賜死後,京都上京の本法寺前に千家再興を許された千少庵は,深三畳台目と三畳道安囲(どうあんがこい)の茶室をつくり,いずれかに〈不審庵〉の額を掲げていた。次いで千宗旦は一畳半を造立して不審庵と称した。…
※「千少庵」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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