南方神社(読み)みなかたじんじや

日本歴史地名大系 「南方神社」の解説

南方神社
みなかたじんじや

[現在地名]鹿児島市清水町

稲荷いなり川が山裾に沿って大きく南西方向に湾曲した地点にできた平地北端に鎮座。「みなみかた」ともよばれ、古くは諏訪大明神・お諏訪様と称した。社殿は東向し、南東に東福寺とうふくじ城跡、北西に清水しみず城跡を望む。祭神は建御名方命・八坂刀売命で、事代主命も併祀する。旧郷社。近世鹿児島五社の第一として島津氏の崇敬最も厚かった。勧請の経緯は島津氏初代惟宗忠久が奥州合戦に出陣の折、信州諏訪社に戦勝祈願をし、戦勝後信濃国に太田おおた(現長野市)を与えられたのにちなむという。その後、島津貞久が諏訪神を勧請し山門やまと院に奉祀したとされ(「島津義天譜」旧記雑録)、さらに島津氏久が康永二年(一三四三)頃に東福寺城を居城とするに伴い当地に遷座したという(「三国名勝図会」など)正平一一年(一三五六)一二月一八日、氏久は「諏方上下」に寄郡内田地四町・薗四ヵ所を寄進し(「島津氏久寄進状」旧記雑録)、同一三年四月四日には鹿児島諏訪大明神に立願にあたって郡内田地一所・小笠懸百番・神馬一疋(「島津氏久立願文」同書)、同月二八日には伊敷いしき村内の「国引田壱町伊地知彦七跡」を寄進した(「島津氏久寄進状」同書)


南方神社
みなみかたじんじや

[現在地名]伊集院町下谷口

麓の犬之馬場ふもとのいぬのばばに鎮座する。主祭神は建御名方神。旧村社。諏訪明神・諏訪上下大明神と称した。伊集院郷の総鎮守で、当社と新宮熊野三所権現・稲荷大明神(麓に所在)、神明宮(大田に所在)九玉くたま大明神(郡に所在)を伊集院五社と称したが、その筆頭であった。江戸時代末まで隣地に伊集院郷の地頭館(地頭仮屋)があった。

正平(一三四六―七〇)頃、伊集院一帯を支配していた伊集院(島津)忠国が石谷いしだに(現松元町)の諏訪神を麓の古諏訪之原こすわのはらに移し、伊集院の地の守護神としたという。


南方神社
みなみかたじんじや

[現在地名]西都市南方

国道二一九号沿いに広がる集落、島之内しまのうちのなかにあり、境内には国指定天然記念物の巨木上穂北かみほきたのクスが枝を広げている。旧村社。祭神は素盞嗚命・天樟日命・大山祇命・宇賀魂命・大己貴命・足名椎命・天名椎命の七神。古くは若宮大明神といい、一ッ瀬川に挟まれた良須山に祀られ、穂北・南方両村の産土神として信仰されていた。創建の年時は明らかではないが、中世以降、伊東氏をはじめ歴代の領主からも崇拝された。


南方神社
みなかたじんじや

[現在地名]枕崎市西鹿籠

東を花渡けど川、西を国道二七〇号に挟まれた田原たばるの地に鎮座。旧郷社。祭神は建御名方命・八坂刀売命。かつては諏訪上下大明神・諏訪社と称され、鹿籠かご村の鎮守。文安元年(一四四四)伊集院熙久が宇敷うしき(蔵多山、四七五・四メートル)山頂から遷座させたという(「三国名勝図会」など)。古来は建御名方命と事代主命を祀っていたが、明治五年(一八七二)神官本田出羽が県令の命を受けて臨検し、事代主命に代えて神体の一つを八坂刀売命とし、南方神社と改称。


南方神社
みなかたじんじや

[現在地名]戸隠村上祖山

祭神は健御名方命で、祭日は五月一〇日、一〇月二一日の春秋である。慶長九年(一六〇四)大久保長安より社領一石の寄進状が下された(南方神社文書)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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