改訂新版 世界大百科事典 「舎利容器」の意味・わかりやすい解説
舎利容器 (しゃりようき)
舎利はサンスクリットで〈身体〉の意であるが,仏教では仏舎利として釈迦の遺骨をさし,これが尊ばれる。実際にはこれに替わるものとして籾,牛玉,玉類などを尊重し,塔中に安置した。その舎利を納める容器が舎利容器である。日本の仏伝によると釈迦の入滅後その遺灰は尊ばれて8ヵ国に分与され,それぞれ塔を建ててまつられた。インドでは舎利崇拝に伴ってアショーカ王の八万四千塔,カニシカ王の大塔など造塔がきわめてさかんであり,舎利容器も無数に作られた。インド最古の舎利容器は北部のピプラーフワー塔跡出土のもので,石櫃,滑石製壺,水晶小壺などが納置されていたという。これは前3世紀代のものである。舎利容器は二重ないし六重に,材質の異なる容器が入れ子に重ねられる。それは石,陶,木,水晶,銅,銀,金などの材質で作られるが,中のものほど貴重な材質で作られる。舎利の安置に際しては,荘厳具(しようごんぐ)として供養品を伴うことが多く,すでにピプラーフワーにおいて多くの供養品が発見されている。中国の舎利容器は隋の文帝が仁寿年間(601-604)に各地に建てた舎利塔のものが有名であり,仁寿4年(604)造立の蘄州福田寺の例では舎利をガラス瓶に納め,それを金合子,銀合子,金銅合子に入れ子にし,それを石櫃に入れている。唐代の開元9年(721)造立の河北省獲鹿本願寺例でも,舎利を納めたガラス容器を金,銀,石の順で入れ子にしている。朝鮮半島では中国の方式が忠実に行われており,とくに新羅の事例がいくつか明らかになっている。慶州芬皇寺例は,石塔軸部に石製の箱をおき,ガラス瓶と多くの荘厳具を入れていた。同じく慶州皇福寺例は,舎利4粒を納めたガラス容器が金小箱,銀小箱,金銅箱の順に入れられており,外箱に唐の神竜2年(706)の銘をもっていた。朝鮮半島でも舎利のみでなく多くの荘厳具が伴う。
日本
古代寺院跡から発見された舎利容器の実例は数例にしかすぎないが,それらの例からすれば外容器として金器,銀器,銅器が順に入れ子にして用いられ,舎利の直接容器としてガラス器を用いるのが正式なものだったようである。崇福寺跡の例では,心礎の側面にうがたれた舎利孔から金製の蓋をもつ緑色のガラス製舎利容器を納めた金箱,銀箱,金銅箱の外容器が,法隆寺では西院五重塔心礎上面にうがたれた舎利孔から銀栓をした緑色のガラス製舎利容器を納めた透し彫の卵形金器,同銀器,金銅壺が出土した。山田寺の場合もこうした埋納法であることが《上宮聖徳法王帝説》裏書に見えているので,断片的に遺存している飛鳥寺,法輪寺,太田廃寺なども同じような形で埋納されたものと考えられる。また,太田廃寺では大理石の櫃に金,銀,銅の容器が納められており,実物は遺存しないが,本薬師寺東塔や法観寺でも石櫃を伴っていたことが記録されており,石櫃を用いることも普及していたと考えてよかろう。これは,インドや中国での埋納法に見られるところであり,その遺制を伝えるとの見方もある。
舎利埋納にあたっては,供養具を添える場合があり,これを舎利荘厳具と呼ぶ。荘厳具が多量に発見されたのは,飛鳥寺,崇福寺,法隆寺などである。飛鳥寺の場合は,とくに後期古墳の副葬品と共通するものが多く含まれ,古墳時代との接点を示すものである。舎利荘厳具には仏教にかかわりの強いものを多く含む場合と,必ずしもそうでないものとがあり,7世紀前半には仏教にかかわりないものが多く,7世紀後半以降のものは仏教にかかわりの強いものが多く埋納されるようである。このことは,朝鮮半島から受けた仏教思想の変化のあらわれととらえられている。舎利は多くの場合,塔心礎の上面や側面に舎利孔をうがって納めた。しかし,舎利孔のない心礎もあるので,その場合は刹柱など,心礎より別の位置にも納めたものと考えられる。たとえば,敏達天皇14年(585)司馬達等が感得した舎利を蘇我馬子に献じ,馬子は大野丘の北に塔を建ててその柱頭に舎利を納めたと《日本書紀》に記されている。
執筆者:森 郁夫
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報