( [ 一 ]について ) ③の意は、仏舎利が米粒に似ていることによっており、近世から例が見え始める。ただし、仏舎利と米粒とを結び付ける発想は中国唐代に既に見られ、日本でも空海撰「秘蔵記」に「天竺呼二米粒一為二舎利一。仏舎利亦似二米粒一。是故曰二舎利一」とある。もっともこれらの記述自体は、梵語の「米śāli」と「身体śarīra」との混同に基づくらしい。
遺骨のこと。とくに釈迦の遺骨を指して仏舎利(ぶつしやり)ともいう。サンスクリットのシャリーラśarīraの音写。古代インドには,偉大な聖者の遺骨を供養することによって天界に生まれることができるという観念があったらしく,釈迦の遺骨も当時の有力な部族や王によって八つに分配され,それらを祀るストゥーパstūpa(塔)がそれぞれの地に建てられたことが古い仏伝に記されている。また,アショーカ王はそれら八つの中の七つの塔から釈迦の遺骨をすべて集め,あらためて細分して各地に分配し,それらを納めたストゥーパを8万4000基建てたと伝えられ,いくつかは残っていたことが玄奘の《大唐西域記》などにも記されている。このように舎利とストゥーパは密接な関係にあったため,ストゥーパの変形である塔(三重塔や五重塔など)にも〈舎利〉(水晶などの球)が安置される。1898年にインドとネパールの国境近くのピプラワーの遺跡から発見された遺骨は,容器の銘文などから,釈迦の遺骨そのものであるとされ,その後,日本にも分骨されて名古屋市の日泰(につたい)寺に奉安された。
執筆者:岩松 浅夫
日本でも,インド,中国,朝鮮の伝統をうけて,仏教伝来後,仏舎利に対する信仰がひろまった。上代寺院においては,仏塔の心礎,心柱(刹),相輪などに仏舎利が奉籠され,その仏塔自体が釈迦そのものとして礼拝された。585年(敏達14)に蘇我馬子が仏舎利を大野丘北塔の柱頭に蔵した例が史料上の初見である(《日本書紀》)。その後建立された法興寺(飛鳥寺),四天王寺,大和山田寺,崇福寺,法隆寺などの諸塔の心柱や心礎石にも仏舎利が奉籠された。この時期の仏舎利はほとんど百済や新羅からもたらされたものであった。奈良時代から平安時代初期にかけて,唐僧鑑真や入唐した学僧たちがおびただしい数の仏舎利を請来したが,その背後に強い舎利信仰のあったことがうかがえる。この時期になると,仏舎利はしだいに堂内に奉安され礼拝されるようになった。747年(天平19)唐請来の仏舎利を法隆寺金堂内に安置したのがその早い例である。また,この時期以降,仏舎利は必要に応じて分粒・相承されるようになった。さらに9世紀ころから仏像胎内への舎利奉籠が多くなり,平安時代末期には経典類の軸部への舎利奉籠が流行した。鎌倉時代,南都を中心とした戒律復興の機運にのって唱導された釈迦信仰は,舎利信仰の流行をうながした。重源の《南無阿弥陀仏作善集》や叡尊(えいそん)の《感身学正記》などに,この時代の舎利信仰がうかがえる。
なお,奈良時代以降,舎利会,舎利講などと呼ばれる仏舎利を供養する法会が,各寺院で盛んに行われた。鑑真が唐招提寺で修したのがそのはじめといわれる。860年(貞観2)には,天台宗の僧円仁が,比叡山惣持院において多くの僧を請じ音楽を調えて,自ら請来した仏舎利を供養する舎利会を行い,以後,恒例とした。1103年(康和5)には,東寺で空海請来の仏舎利を供養する舎利会が始行され,以後,毎年金堂で修された。仁和寺では1143年(康治2)に,高野山金剛峯寺では1146年(久安2)に,それぞれ始行されている。
→舎利容器
執筆者:山陰 加春夫
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サンスクリット語シャリーラśarīraの音訳で、原義は身体のことであるが、転じて遺骨、とくに仏陀(ぶっだ)(釈迦(しゃか))の遺骨をさし、仏舎利、仏骨という。骨崇拝は先史時代よりあったものと考えられるが、仏教で舎利崇拝がおこったのは、仏陀がクシナガラで入滅し、その遺体が火葬に付され、遺骨と灰が仏陀ゆかりの八つの土地に分納され、塔が建立され供養されて以来のことである。アショカ王は、上記八つの仏塔のうち七つを開けて舎利を分け、インド各地に多数の仏塔を建てたと伝えられる。スリランカのキャンディにある仏歯(ぶっし)寺には、古く仏陀の歯骨が伝えられ、今日も人々の熱心な崇拝の対象となっている。わが国でも舎利供養のための法会(ほうえ)が行われたことが、『日本書紀』などにもみえる。1898年(明治31)ネパールにおいて、仏陀の遺骨とみられるものが発掘されて仏教諸国に分与された。日本では名古屋市覚王山の日泰(にったい)寺に安置奉祀(ほうし)されている。なお、舎利を安置する塔を舎利塔、舎利を納めておく堂宇を舎利殿という。
[高橋 壯]
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出典 日外アソシエーツ「歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典」歌舞伎・浄瑠璃外題よみかた辞典について 情報
…有名な俊芿自筆の〈泉涌寺勧縁疏(かんえんしよ)〉(国宝)は,この翌年に造営資金を勧進して書かれたものである。2世湛海は入宋し,楊貴妃観音など多くの仏像,泰山白蓮寺に伝わる仏舎利を将来した。この仏舎利は天下無双の霊宝として謡曲《舎利(しやり)》にも霊験がうたわれ,当寺は舎利信仰の中心となって,そののち貴賤の信仰をあつめた。…
…舎利はサンスクリットで〈身体〉の意であるが,仏教では仏舎利として釈迦の遺骨をさし,これが尊ばれる。実際にはこれに替わるものとして籾,牛玉,玉類などを尊重し,塔中に安置した。…
…しかし古い時代には釈迦のみならず高徳の比丘のストゥーパも造られた。また仏舎利塔とも呼ぶように原則として釈迦の舎利(焼骨śarīra)をその中に納めるが,仏髪や仏牙(仏歯)のストゥーパも伝えられており,実際には遺骨の代りに宝石や貴金属などを用いたり,経文や経巻などの法舎利を納めたものもある。前3世紀のアショーカ王は最初の8塔のうちの7塔から分骨してインド各地に8万4000のストゥーパを造立したという伝説があり,王が造塔を大いに推進したことをうかがわせる。…
…すなわち,初期の仏寺に出現した浮屠は,インドのストゥーパの象徴的な細部,チャトゥラーバリ(傘蓋),ヤシュティ(傘竿)を,中国の伝統的な木造楼閣に採取した建築であると同時に,機能的には後世の仏殿に相当するものであった。その後,伽藍内において仏を供奉する仏殿と仏舎利を安置する高塔の機能分離が行われ,後者の建築類型として定着したのが,中国独自の仏教建築形式としての塔であるといえよう。 中国における塔の形式は,しかしながら一様ではなく,上記のような層塔を楼閣式と呼ぶのに対して,密檐(みつえん)式と称する軒だけを幾重にも重ねた形式も少なくなく,さらに単層塔,ラマ塔,金剛宝座塔,花塔などの形式もある。…
…しかし,釈迦が滅するや,大衆は〈法〉のみでは満足せず,しだいに〈仏〉を主体とする造形を生み出していった。その一つは早くからみられ,荼毘(だび)に付された釈迦の遺骨(舎利)を人々は求め,舎利は分配され,これを中心に塔が建立された。舎利信仰の隆盛にともない,塔は石造化し,さらに塔門や柵には浮彫が施され,荘厳化が進む。…
…スリランカで,仏歯すなわち釈迦の遺骨(舎利(しやり))の一部である歯を供養して行われる祭り。この仏歯は釈迦の左の犬歯といわれ,4世紀後半にインド本国のカリンガ国からスリランカにもたらされ,以後王宮内に安置され,王位継承のしるしとされた。…
…古代エジプト人は天然磁石を〈ホルスの骨〉と呼び,鉄を〈セトの骨〉と考えた。日本で今も米粒を〈しゃり〉というのは,仏陀の遺骨舎利(サンスクリットでシャリーラśarīra)が火葬後に分けられて細粒化したのに形が似るからである。 骨折は古くから人を悩ます大問題で,さまざまな治療が試みられている。…
※「舎利」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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