古満家(読み)こまけ

改訂新版 世界大百科事典 「古満家」の意味・わかりやすい解説

古満家 (こまけ)

江戸時代の蒔絵師の家系。初代は休意(?-1663)。1636年(寛永13)徳川家光に召され御抱蒔絵師となり,江戸城内紅葉山の仏殿に蒔絵をして大いに褒められた。彼の作に〈柴垣蔦蒔絵硯箱〉(東京国立博物館)がある。子孫は江戸末期まで12代におよび,代々作風古満蒔絵と呼ぶ。その作風は幸阿弥蒔絵と異なり,幸阿弥家では古満家を道楽蒔絵と軽んじた。古満家は時代の流行にそった変化ある態度で製作し,品格を第一として静的で保守的な作風の幸阿弥家とあいいれなかったといえよう。2代休伯(?-1715)は休意の子,通称久蔵。世人より漆技を空前絶後と評せられるほどの名手で,89年(元禄2)幸阿弥長救とともに蒔絵師頭取となり,日光東照宮の蒔絵に従事した。以下3代,4代,5代休伯も通称を久蔵という。5代は1778年(安永7)日光御霊屋の修復の際,塗師方(ぬしかた)御用を勤める。その門人の巨柳(こりゆう)は本名を木村七右衛門といい,師家より古満の姓をゆるされ,巨柳斎ともいった。余技に機械人形をつくった。巨柳の弟子坂内重兵衛(?-1835)も古満の姓をゆるされて,寛哉と称した。のちに坦叟(たんそう),坦哉とも称した。寛哉の門から柴田是真がでた。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「古満家」の意味・わかりやすい解説

古満家
こまけ

徳川家の御抱え蒔絵師(まきえし)として11代続いた家系。初代休意(きゅうい)(?―1663)は1636年(寛永13)徳川家光(いえみつ)に召され、江戸城内の紅葉山(もみじやま)の仏殿に蒔絵を施し、そのみごとさにより賞せられた。遺品に『柴垣蔦蒔絵硯箱(しばがきつたまきえすずりばこ)』(東京国立博物館)があり、瀟洒(しょうしゃ)な作風である。2代休伯(?―1715)は1681年(天和1)父の跡を継いで徳川家の蒔絵師となり、1689年(元禄2)幸阿弥長救(こうあみながやす)とともに蒔絵師の頭取として、日光東照宮に蒔絵を施した。彼の技能は精密佳麗な表現力があり、とくに黒漆塗りの技では当時名手とうたわれた。4代休伯(生没年不詳)は1778年(安永7)に日光東照宮の再修理に従事している。以降子孫は幕末まで続くが、これらの人々の作品を古満蒔絵という。特色は、格式張らず時流の好みを意匠に取り入れ、琳派(りんぱ)に近い技法を用いたので、幸阿弥家では道楽蒔絵といって蔑視(べっし)した。また優れた門人には古満姓を許し、安永(あんえい)・天明(てんめい)(1772~1789)ごろの巨柳(のちに巨柳斎)や寛哉(かんさい)(2代目、1835没)がある。寛哉の門人から柴田是真(しばたぜしん)が出ている。

郷家忠臣


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百科事典マイペディア 「古満家」の意味・わかりやすい解説

古満家【こまけ】

江戸時代,徳川家に仕えた御用蒔絵(まきえ)師の家系。代々の作風は古満蒔絵と呼ばれ,静的・保守的な作風の幸阿弥家とは対照的に,時代の流行に添った態度を示した。初代の休意〔?-1663〕は徳川家光に召され,江戸城内紅葉山の仏殿に蒔絵をした。研出(とぎだし)蒔絵にすぐれ,《柴垣蔦蒔絵硯(すずり)箱》が代表作。2代休伯〔?-1715〕は休意の子で,幕府御用蒔絵師となる。幸阿弥長救とともに蒔絵師頭取として,日光東照宮の蒔絵に従事。作風は精巧で,特に黒漆の名手。3代以下は休伯と号し,幕末まで12代を数えた。巨柳(こりゅう)〔?-1793〕は5代休伯の門人。古満の姓を許され,名手といわれた。
→関連項目漆器

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世界大百科事典(旧版)内の古満家の言及

【印籠】より

…作りには木竹器,漆器,金属器,陶器,牙角器などがあり,装飾法も多岐に及ぶが,とりわけ蒔絵をほどこしたものに佳品が多く,江戸時代工芸の最も特色ある一分野となっている。この時代の蒔絵師のほとんどがこれに手を染めたが,印籠蒔絵師としては古満(こま)家,梶川家が名高い。【河田 貞】。…

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