右と左(読み)みぎとひだり

改訂新版 世界大百科事典 「右と左」の意味・わかりやすい解説

右と左 (みぎとひだり)

右あるいは左を絶対的に定義することは不可能である。一般には例えば右を〈北を向いたとき東にあたる方〉とか〈東を向いたとき南にあたる方〉と定義するが,東を定義するのに〈北に向かって右〉とかいうふうに右,左を使わねばならないから,これは一種のトートロジーである。左右対称(鏡面対称ともいう)を幾何学的に定義することは可能だが,対称体を正中面で二分したときのいずれを右,左というのかは相対的にしか決定できない。個人的な実感として左右の認識は確かなものと思えるが,それは上記の方位のほか,心臓の位置,利き腕など,他の左右性との対応づけを繰り返すことによって得られる経験的な認識である。

 鏡に自分の姿を映すとき,そこには二重の左右性が存在する。実像と鏡に映った鏡像は鏡面をはさんで左右対称であり,鏡に映った自分の姿は,正中面を中心に左右相称である。ふつう鏡の像と本人は左右が逆転しているという印象を受ける。ところが幾何学上,逆転しているのは左右軸ではなく前後軸なのであり(図),事実,鏡をみながら作業をするときに最も困難を感じるのは前後軸の運動を伴う操作である。

 にもかかわらず,なぜ左右が逆転していると感じるのであろうか。それには二つの理由がある。まず第1に,左右というのが方位のように客観的なものでなく,話し手を中心とした主観的な方向性だということがある。鏡の中の像を見るとき,人は鏡の中の人物の立場になって左右を考えるので,自分の右手が鏡の像で左手になっているとみてしまうのである。第2に,人間の体そのものは外見上正中線をはさんで左右相称に見えるが(ただし厳密にはそうではない),右手と左手には機能上の差があり,人間がその左右性を意識しているということがある。もし左半身と右半身が形態上,機能上まったく同一であれば,左右を意識することはなく,したがって,おそらく鏡の像が左右逆転しているという感じをもつことはなかったであろう。

 自然界には,ミクロ素粒子におけるパリティの非対称性(非保存性)に始まって,分子,動植物から,マクロは地球をはじめとする天体の公転や自転に至るまで,さまざまなレベルでさまざまな形の左右性が存在する。以下に〈構造上の左右性〉と〈運動における左右性〉に分けて,いくつかの具体例をとりあげ,左右性の果たす役割について考察してみる。

ミクロにおける構造上の左右性の代表的な例に光学異性がある。これは炭素などの元素を中心に四面体の構造をとる分子に典型的にみられるもので,四面体の構成上,この分子には鏡像関係にある2種類の立体配置すなわち異性体が可能である。この2種の異性体は化学的・物理学的性質はまったく同じだが,旋光性が異なるので区別することができる(ここでは旋光性と関係なく,立体配置によってD型,L型と呼ぶ)。光学異性は炭素を含む有機物質のほか,無機塩や水晶の結晶などにもみられるが,自然状態ではすべてD型,L型は等量存在しラセミ体をつくっている。しかし,生体中にみられるアミノ酸および糖には偏りがあり,真核生物ではアミノ酸はL型のみ,糖はD型のみしかみられない。このような偏りが化学進化の過程でいかに生じたかについて今のところまだ確かな答えはないが,この偏りが生命の分子的基盤であることは明白である。すなわちアミノ酸の偏りがペプチド鎖のα-らせん,ひいてはタンパク質の複雑な立体構造を可能にし,糖(リボース)の偏りがDNAのらせん構造,すなわち巧妙かつ精緻(せいち)な遺伝情報の保存,複製,伝達を保証する物質的基盤を与えているのである。もしアミノ酸や糖が生体中でラセミ状態で存在すれば,上記のような構造をとることはできないのである。

 生命の基本単位である細胞はもともと球形であり,単細胞生物として地球上に出現した原初の生物も,球形すなわち構造上はすべての方向に関して対称性をもつものであった。進化の過程を通じての動物における体制の複雑化はまず,背と腹の区別を生じて上下方向の対称性が破れる。つづいて運動性の発達に伴って頭尾軸が形成されるようになって前後方向の対称性が破れ,最後に残ったのが左右の対称性,すなわち左右相称性である。左右相称性は前進運動と密接に結びついている。運動器官は定位のための感覚器官とともに左右が均一でなければ直進が不可能だからである。しかし,前進運動と直接かかわらない種類や部位では,左右の不相称が可能である。シオマネキのはさみ(この場合,大きいほうは食物を砕くのに,小さいほうはそのかけらをつかむのに適するという形での機能分化が伴う),カレイ類の左側に偏った目,イスカのくちばしなどが典型的な例である。また,外形的には左右相称を保ちながらも内臓機能の複雑化は,脊椎動物において,消化管,心臓,肝臓などに著しい左右の非対称を生じた。この段階において左右性というものが初めて問題となりうる。

 ヒトは直立歩行によって他の脊椎動物と根本的に体制を異にし,歩行は下肢のみが受け持つことになり,前肢すなわち上肢は道具使用その他の高度な作業を担うことになった。ここから左手と右手の機能分化が導かれ,さらには,それに対応する神経中枢,右脳と左脳の分業化がもたらされることになった。
左右優位 →相称 →対称

回転運動には,その方向が必ず2通りあるが,そのいずれを左回り,右回りと呼ぶかは,構造における左右性よりもさらに問題が複雑である。最も簡便な表現は時計の針の回転方向を右回りとすることで,英語でも右回りをclockwise,左回りをcounterclockwiseまたはanticlockwiseと呼んでいる。しかし,これも回転軸のどちら側からみるかによって逆転してしまう。地球の自転は北極の側から眺めれば左回りだが,南極の側から眺めれば右回りになってしまう。したがって,この場合にも観察者の位置を明らかにしないかぎり混乱が生じる。

 同一平面上の回転運動の半径が一定の比率で増加すれば渦巻線のらせんspiralになり,回転しながら円柱のまわりを昇っていけば,コイル状のらせんhelixとなる。これらについても右巻き,左巻きが問題にされる。地球上では大気や海洋中にさまざまのがみられるが,その左右性は多かれ少なかれ地球の自転の方向に影響されるが,とくに低気圧の渦の場合にはコリオリの力を受けて北半球では左回り,南半球では右回りとなる。

 太陽系天体では,地球の北極の側から眺めれば,太陽を回るすべての惑星は左回りであり,多くのすい星もそうである。これは太陽系の起源が一つであることの結果と考えられる。衛星についても大多数は左回りだが,木星の外側の4個など右回りのものがあり,逆行衛星と呼ばれる。惑星の自転については金星と天王星を除いて左回りである。

 らせん構造は,上記のペプチドのα-らせんやDNAの二重らせんをはじめ,生体のさまざまなレベルで重要な役割を果たしている。らせんの右巻き,左巻きが問題になるのは,その分布に偏りのある場合で,巻貝(腹足類)の殻と植物のつるの巻き方が代表的なものである。右巻き,左巻きの定義は国によって学者によって混乱があるが,巻貝の場合は,殻頂から見た向きをいう。ほとんどの巻貝は右巻きであるが,海産のキリオレガイ類,陸産のキセルガイ類は全部左巻きであり,また本来右巻きであるにもかかわらず,ごく一部の個体が左巻きである場合もある。右巻き,左巻きは遺伝的に決まっており,発生の初期かららせん卵割の方向に反映される。また巻貝にすむヤドカリは貝の巻き方に応じて一般に右回りにねじれている。

 植物のつるの場合には,真上から見て右巻き,左巻きをいうのがふつうである。種によって巻き方が決まっていることが多く,ホップやオニドコロは右巻き,インゲン,アサガオは左巻きであるが,ツルドクダミなどは左右不定である。このほか頭のつむじや指紋の渦にも巻き方に人種差や個人差があるが,その機能は不明である。なお,ねじらせん階段などの人工物にも右巻き,左巻きがあるが,その巻き方は人間の右手優位に合わせてつくられることが多い。
らせん
執筆者:

人間の右手と左手は形態的に対称であるが,機能的には非対称で,片方の手が利き手となり,しかも人種の差を超えて右利きが優越している。この右利きの優越には社会的規定が伴い,しつけや矯正によって成員すべてが右利きである社会もある。左右の手の機能分化それ自体は,二足歩行で可能となった手作業の複雑化が要請したものだが,そこにはつねに右手が主導的でなければならぬ理由はない。ニホンザルなどの類人猿にも手作業の左右分化は見られるが,交互に主導的となる手を変えることが多く,両手利き,右利き,左利きの差は個体的にも場合によっても流動的であり,そこに社会的規制はない。人間における右利き優越は,生理的制約や機能的理由によるというより,流動性のある左右分化を,象徴空間的な左右の意味の違いを社会成員が共有するために,社会的規制によって固定化させたものといえよう。

 フランスの社会学者エルツRobert Hertzは,右利き優越の社会的規制を聖と俗あるいは浄と穢(けがれ)という宗教的な二元論(両極性)に由来すると説いた。確かに,右と左の対立を,右は浄・善であり左は穢・悪であると価値づける宗教文化は多い。印欧語ではギリシア語・ラテン語など,左を表す語(例えばラテン語sinister)が悪や凶を,右を表す語(ラテン語dexter)は善や吉を意味する。台湾のインドネシア系のアミ族やパイワン族では,右腕に善い精霊が,左腕には悪い精霊がいるとされ,神や祖先に物を供えるときには右手を使うが,悪霊をはらうのには左手を用いていたという。インドネシア諸族では一般に,右手を尊び左手は不浄のものとされ,食物は右手でつかんで食べ,排出などには左手を使う。同様の習俗はアフリカ諸社会にも見られる。だが右と左の対立それだけが単独で善・悪や聖・俗を不変的に表象するわけではなく,多くの場合,男と女の対立など他の二項対立と結びついて象徴二元論的分類をなす。表象形態も右手と左手の差だけでなく,右側と左側という空間的対立を含み,その価値づけも聖と俗といった宗教的なものにとどまらない。例えば,アフリカ(タンザニア)のゴゴ族では,右手・右側は,ことばのうえでも男との結びつきを示しており,食事に使う清浄な手,性交のとき男が寝る側,父系親族の位置する側であり,東や上などと結びつき,善や強さ,政治的権威を表象しているのに対し,左手・左側は,女の手や側で,排便に使う不浄な手,性交のとき女の寝る側,母系親族や姻族の位置する側であり,西や下と結びつき,悪や弱さ,儀礼的神秘力を表象する。

 右と左の対立を含む象徴二元論的な価値づけは,社会集団の分類や世界観の深層にまで及び,意識されていないことが多い。心理学的にも右側が公的で外面的な空間,左側が私的で内面的な空間に無意識のうちに結びつけられることがあるという。右と左のこのような空間的意味づけの違いは,上と下,前と後の空間的対立にもみられ,これらの対立も象徴二元論的分類体系に組み込まれることが多い。しかし右と左の対立に比べ,上と下や前と後の対立は,天と地の景観および重力の方向(上と下),視野や進行の方向(前と後)などの明確な違いによって固定されているために,身体による可変的操作が困難で,他の二項対立群と広く結びつきにくい。その価値づけも,天国と地獄(上と下)のように明確で流動性が少ない。右と左の対立が象徴二元論において,男と女の対立と同様の重要性をもつ理由は,形態や機能の差が流動的で相補的になっているため,操作が容易で他の二項対立群と広く結びつきやすいこと,また価値づけにおいても絶対的な価値対立というより相補的な価値対立を表象することができ,〈価値の象徴的逆転〉の操作もしやすいことなどにあろう。ゴゴ族では,長老たちの日常的な政治的権威は右と結びつくが,雨乞いや豊饒(ほうじよう)祈願などの儀礼的状況での代表者は左利きの若者が選ばれる。またアフリカ(ウガンダ)のニョロ族でも,右が善や吉・浄,左が悪や凶・穢として価値づけられて,王権などの権威や男は右と結びついているが,占い師(男)は占いに左手を用いる。これらの事例は,非日常的な状況において,ふだんは秩序の中の権威により劣位とされている儀礼的な力が一転して優位となる〈象徴的逆転〉としてとらえられる。相補う二つの力の関係が,身体機能上でも補い合っている右手と左手の対立において表象されているのである。同様の論理は,儀礼的状況における男女の価値逆転(役割転倒)や,特定の宗教的職能者の異性装といった世界各地の習俗にも見いだせる。
左利き
執筆者:

右と左によって象徴される関係は,一般に2者の対立と背反である。しかしこの関係を厳密に見れば,(1)光と闇,聖と俗のように絶対的対立を示す二元性duality,(2)磁石の南極と北極,中国の陰陽二気のように両者を独立して引き離すことができず,むしろ一つの事象の両面を意味する極性polarityに分類される。この場合,右と左は論理的には(1)の意味に該当しないにもかかわらず,社会的に(1)の象徴の一つとされ,(2)を表す比喩としては表裏や男女などのほうが普通に用いられる。これは左右性については,実生活において機能的に差のある左手と右手が二分法の基準に使用されたため,むしろ絶対的区分の象徴に転化したと考えられる。

 最も広く用いられる右と左の象徴性は,善悪に関するものである。左を悪と見なす習俗はインド・ヨーロッパ語系諸族に多く認められ,ローマの鳥占いでは左側から鳥が飛べば凶とされた。キリスト教でも左を邪悪の側とし,キリスト磔刑(たつけい)図では左側に悪しき盗人,右側に善良な盗人,また寓意図では左にキリスト教会,右にユダヤ教のシナゴーグを描いて前者の優位を暗示したりする。西洋では会食の際も主人役の右側に座るほうが格が上とされる。次に広く使用される象徴性は,保守と革新,中央と在野といった政治的立場に関するものである。左が野党や革新勢力を意味するようになった起源は,1789年に設置されたフランス国民議会にあり,このとき貴族は議長席から見て右側に,平民は左側に席を占め,急進派のジャコバン・クラブなどがそこに含まれていた。この形式が各国の議会でも踏襲され,左翼は野党,その中でも最も左側に急進派が座るようになった。またある時期にはヨーロッパでは共産党が左端に席を連ねたので,マルクス主義者などを〈極左〉と呼んだこともある。

 しかし,右と左のどちらに優位や権威を象徴させるかは,国際化した現代社会では困難な問題である。例えば,右側を優位とし信頼や忠誠の表象としたキリスト教に対し,漢字文化圏では一般に左を優位の側と見る傾向にあった。この両者が融合すれば,右と左の象徴性を形成した原理が混乱せざるをえない。その一方,日常物に見られる右側優位,例えば右ねじ,右綴(と)じ,右回りなどの例は,大量生産や画一化のために仕様を統一する必要から生まれた現象といえよう。また,よりいっそう人為的な左右の区分けもある。例えば右ないし左側通行の規則がそれである。日本やイギリスでは古来左側通行が原則で,これは左腰に差したりつったりした剣を互いにぶつけないための決まりだったともいわれている。一方,アメリカは人も車も右側通行であった。これも彼らが右腰に拳銃を下げる習慣があったからだといわれる。第2次大戦後日本にもアメリカ式が導入され,1949年に人の通行は右側に改められた。しかし鉄道や自動車の通行制度を変えるには膨大な費用が必要とされたので,こちらのほうは今でも左側通行のままである。このように現代における右と左の象徴性はかなり多様な規準により成立しており,またその習慣の源となった文化的背景も不明瞭になっている。
執筆者:

中国の場合,〈左を尚(たつと)び右を尚ぶ〉といわれるように,左右のどちらを上位としたかは時代や王朝によって異なった。

 職官の場合は,すでに周の時代に尚左であったらしいが,戦国・秦・両漢の時代になると職官を含めてすべてのものが尚右に傾いた。この尚右の時代に,左愚,左遷,左官,左道といった左賤(させん)を意味することばも現れた。六朝時代には,職官はもとの尚左に戻り,唐代には尚左をよりいっそう広げたほか,職官以外の分野でもほとんど尚左と思いかねないほど左は右と同等に尊重された。以後,元を除いて清朝に至るまで,各王朝とも尚左を受け継いでいった。しかし,この各王朝のとった尚左の政策は多分に観念先行的なもので,とくに唐代の場合などは,徳による統治という理念のシンボルとして尚左があげられていたと思われ,実際に当時の民衆の間ではどうであったのかという点は不明のままである。

 右文化の中でのほんの一部ではなく,ひじょうに広い分野で左を重視する中国文化は,ほとんど唯一の左優位の文化ではないかとして注目されてきた。しかし,M.グラネは〈中国における右と左〉の中で,古代中国では概して左が尊ばれたが,これはかなり相対的なものであって,右が必ずしも卑しいというものではなく,場合によって変化があったと述べている。つまり,中国では左右どちらを尊重するかは時代や王朝によって変遷しただけでなく,方位,陰陽,男女,儀式の性質,当事者の社会的政治的序列などによっても複雑に交代し,矛盾もあったのである。それゆえ,中国においても,他の右文化とまったく正反対な左右の対立は見られないと,グラネは結論づけたのである。

日本の上代においては,左を上位とする〈尚左〉の習慣があったと一般に説かれてきた。そのおもな根拠として,伊弉諾(いざなき)伊弉冉(いざなみ)二神による国生み神話で〈陽神左旋,陰神右旋〉が説かれ,〈陽神先唱,陰神後和〉がよいとされたこと,天照大神は伊弉諾がみそぎで左目を洗った際に生まれたこと,左右が並ぶとき必ず左から説明が始まること,第1番目の座席を左座ということ,左大臣が右大臣より上位であること,埴輪によく見られるように左衽(ひだりおくみ)で着物を着たことなどがあげられている。しかし,第1に〈陽神左旋,陰神右旋〉の男尊女卑の思想と,女神である天照大神と左とを結びつけることには矛盾が見られるし,また古代には中国の尚左の文化だけでなく,同時に〈右に出ずるひとなし〉(継体紀),〈左降〉(《万葉集》),〈左遷〉(《続日本紀》)といった尚右の文化の導入も見られる。したがって,日本の上代とくに神代の〈尚左〉の根拠としてあげられるものには,どれだけ実際の風習を反映したものか疑わしいものが多い。左大臣,右大臣が登場するのは,645年(大化1)であるし,このほか左右のつく官名が多く現れだすのは,大宝律令(702)以後のことにすぎない。また《魏志倭人伝》には倭人の集会では,座席の順序や立ち居振舞に父子や男女による区別はないと記している。日本では,本末,大小,上下などに比べて,左右対比の思想は比較的新しく意識にのぼってきたように思われる。また神代の一部に〈尚左〉の記述が見られるからといって,直ちに上代には左が右より尊重されていたとはいいがたい。

 今日では一般に,左前,左膳,左様,左遷,左継ぎ,左封じ,左巻き,左縄,左相撲,左鎌,左柄杓(ひだりびしやく),左回りなど,左は不吉で異常な思うようにならないことを意味するという左賤の表現が多く,イタチが目前を左から横切るのを不吉としたり,着物を左前に着ると早死にする,盗人や蛇が入る,親の死に目に会えないなどの迷信も行われている。一方で,左うちわや左扇は安楽な生活をすることであり,左利きは器用である,左の耳が鳴ると珍しい人にあう,左の耳がほてると褒められている,左ばらみとは俗に男児がはらむことをいうなど,左がよい意味で使われる表現もある。なお,大工や石工が左手でのみを持つことから,左手は〈飲み手〉とされ,酒飲みや酒好きを左とか左が利くなどという表現も生まれた。右手の優位は多くの文化で証明されているが,左賤を意味することばは〈尚右〉の文化を前提にしてのことであるし,また積極的に右優位を説く〈右腕(最も頼りになる者)〉といった表現も見られる。日本文化の場合,いったい尚右なのかそれとも尚左なのかは,一概に論ずることはできないが,右優位を暗黙の前提としていることが多いようである。

 なお,古くは右または右手を馬手(めて)(馬上で手綱を持つ手),左または左手を弓手(ゆんで)(弓を取る手)と呼んだ。例えば《保元物語》に剛弓を引く源為朝は〈弓手のかひな馬手に四寸のびて,矢づかを引く事世に越たり〉とある。
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内の右と左の言及

【象徴】より

…ところが,現在知られている多くの社会において,右(手)は,しばしば,善,強さ,秩序(コスモス),生,光,男などを象徴し,左(手)は,悪,弱さ,混沌(カオス),死,闇などを象徴する。ただし,右と左がそれぞれ独立にこれらの事象を象徴しているのではなく,右と左の対比(関係)が,たとえば秩序(コスモス)と混沌(カオス)の対比(関係)を象徴しているのである。いずれにしても右‐左のそれぞれと結びつく事象がかなりの社会で共通であることから,この結びつきがまったくの偶然もしくは恣意によるものとは考えがたい。…

【二元論】より

…この状態を〈独存〉〈解脱(げだつ)〉という。一元論多元論【宮元 啓一】
[象徴二元論]
 男と女,右と左,上と下,昼と夜,人間と動物,居住地と叢林,料理と生(なま)のものといった具体的で操作可能な二項対立を,儀礼の中などの諸脈絡において対応させ,善/悪,秩序/混沌,優/劣,吉/凶,浄/穢などの観念的・抽象的な価値対立を象徴的に表現することを象徴二元論という。例えば,中国(台湾)では,屋敷の中の祖廟にある位牌には調理した食物を供え,屋敷地の外の墓には生のものを供える地域がある。…

※「右と左」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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