日本大百科全書(ニッポニカ) 「吉田兼右」の意味・わかりやすい解説
吉田兼右
よしだかねみぎ
(1516―1573)
室町後期の神道(しんとう)家。吉田神道の大成者卜部兼倶(うらべかねとも)(吉田兼倶)の子で清原(きよはら)家を継いだ宣賢(のぶかた)の次子として永正(えいしょう)13年に生まれる。吉田家の当主兼満(かねみつ)に男子がないため、13歳で吉田家を継ぐ。1525年(大永5)叙爵、神祇権少副(じんぎのごんのしょうふ)に任ぜられ、以後累進して従(じゅ)二位神祇大副に至る。また、神祇管領長上として神道界に重きをなした。とくに戦乱の世にあって山口の大内義隆(おおうちよしたか)や越前(えちぜん)の朝倉孝景(あさくらたかかげ)らの戦国大名と親交を結び、しばしばその領国に下向(げこう)して、祈祷(きとう)や神道伝授を行った。他方、在地の郷村神主(かんぬし)層にも積極的な働きかけを行い、神道裁許状(さいきょじょう)や宗源宣旨(そうげんせんじ)の付与などを通して、吉田家と地方神社との結び付きを図っている。このような活動によって、兼倶没後一時停滞していた吉田家の勢力拡大に尽力し、その子吉田兼見(かねみ)(1535―1610)、神龍(しんりゅう)院梵舜(ぼんしゅん)とともに神祇道の宗家としての礎(いしずえ)を築いた。元亀(げんき)4年1月10日、58歳で没した。諡(おくりな)を唯神霊社という。
[高橋美由紀 2017年10月19日]
『萩原龍夫著『中世祭祀組織の研究』増補版(1975・吉川弘文館)』