江戸初期の神道(しんとう)家で僧侶(そうりょ)。龍玄(りゅうげん)とも称す。吉田神道(しんとう)家の神祇管領勾頭(じんぎかんれいこうとう)長上吉田兼右(かねみぎ)の子、兼見(かねみ)(1535―1610)の弟で、初め神道を学び、のち出家。京都吉田山下の神龍院の住職。兄兼見とともに、豊臣秀吉(とよとみひでよし)没後、豊国(ほうこく)社の創建、運営に功をたて、のち徳川家康に神道を講じ、神道伝授を約束したこともあり、1616年(元和2)家康を遺言により静岡久能山(くのうざん)に神葬祭で葬った。また古典書写によくあたり、古典継承上の功も大きい。その日記『舜旧記』(一名『梵舜日記』)は当時の中央情勢をみるうえの貴重史料。
[鎌田純一 2017年10月19日]
『『舜旧記』(『史料纂集』所収・1970~1999・続群書類従完成会/オンデマンド版・2014・八木書店古書出版部)』
近世初期の神道家。吉田神道の総元,吉田兼右(かねすけ)(1516-73)の子。兼見(かねみ)の弟。のち出家。吉田山山麓の住坊にちなんで神竜院と呼ばれた。1598年(慶長3)豊臣秀吉の死去に際し,兄兼見とともに,吉田神道にもとづく豊国大明神の神号授与,ついで阿弥陀ヶ峯に営まれた豊国廟・豊国神社の創建に力をつくし,その神宮寺別当となった。当代を代表する神道家として名声高く,後陽成・後水尾両帝をはじめ,徳川・豊臣両家の崇信をうけ,豊国神社の経営を安定させ,盛大な豊国祭を行って庶民の人気を得るなど,豊国神社への崇敬を京都に広めた。1615年(元和1)豊臣家滅亡とともに,家康の命で豊国神社は廃絶したが,神道家としての梵舜は家康に重用され,翌16年の家康死去にあたり,その遺骸の久能山埋葬,墓前の廟宇の営みなど梵舜が吉田神道の祭式で行った。膨大な《梵舜日記》は神道家としての彼の学識のほか,当代政治の趨勢を知る貴重な史料である。
執筆者:藤井 学
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(白山芳太郎)
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