デジタル大辞泉
「清原宣賢」の意味・読み・例文・類語
きよはら‐のぶかた【清原宣賢】
[1475~1550]室町後期の学者。吉田兼倶の子。清原宗賢の養子。号、環翠軒。法名、宗尤。儒学・国学に通じた。著「日本紀神代鈔」「貞永式目抄」。
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きよはら‐の‐のぶかた【清原宣賢】
- 室町後期の漢学者、国学者。吉田兼倶の子。清原宗賢の養子。別姓舟橋。号は環翠軒。蔵人、直講となり侍従に進む。「五経」や「論語」には古注、「大学」「中庸」には朱注を使用。また「日本書紀」「貞永式目」などを注釈した。法名宗尤。文明七~天文一九年(一四七五‐一五五〇)
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清原宣賢(きよはらのぶかた)
きよはらのぶかた
(1475―1550)
室町後期の学者。吉田(卜部(うらべ))兼倶(かねとも)の第3子。のち清原宗賢(むねかた)の養嗣子(ようしし)となり、養祖父業忠(なりただ)(1409―1467)の号を継いで環翠軒(かんすいけん)と号した。10世紀以来の明経道(みょうぎょうどう)師行家である清原家の儒学をもって朝廷に仕え、主水正(もんどのかみ)、大炊頭(おおいのかみ)、蔵人(くろうど)、直講(ちょっこう)を歴任し、昇殿を許されて侍従に任じられ、正三位(しょうさんみ)に叙せられた。清原家は、孔子以来の漢学である古注学を朝廷に進講したが、15世紀のころから、京都五山の禅僧の兼習朱子学、すなわち新注学に対抗して清原家の朱子学を創(はじ)め、宣賢は古注学と新注学を総合大成した。宣賢の時代は戦国時代であったので、朝廷から与えられた伝領は戦国大名に侵食され、生活のため出稽古(でげいこ)を余儀なくされた。京都では後柏原(ごかしわばら)・後奈良(ごなら)天皇、方仁(みちひと)親王(後の正親町(おおぎまち)天皇)に進講し、僧侶(そうりょ)にも講釈した。地方では能登(のと)、若狭(わかさ)、越前(えちぜん)国などへ出稽古した。とくに越前国の大名朝倉孝景(あさくらたかかげ)の一乗谷(いちじょうだに)に出講して優遇された。宣賢はまた一条兼良(いちじょうかねら)や父兼倶と『日本紀神代巻(じんだいかん)』の研究に励み、その著に『日本紀神代抄』がある。宣賢は漢学、朱子学、神代抄の研究に加えて、兼倶の吉田神道にも通じ、神儒一致の「清原家神道(清家(せいけ)神道)」を完成した。これは「儒家神道」「王道神道」ともいわれ、神道の信仰と儒学の倫理を総合したものである。宣賢の大量の著作は『宣賢抄(せんけんしょう)』と称され、現在に至るまで京都建仁寺(けんにんじ)両足院に伝承されている。16世紀末、建仁寺で勉学した林羅山(らざん)は『宣賢抄』によって林家学とその理当心地神道(りとうしんちしんとう)を完成し、家康に登庸(とうよう)されて、官学家を創め、幕藩体制の指導倫理と朝幕関係のために貢献した。天文(てんぶん)19年、越前一乗谷に76歳で死去した。
[今中寛司 2016年5月19日]
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清原宣賢
没年:天文19.7.12(1550.8.24)
生年:文明7(1475)
室町期の儒学者。吉田兼倶の3男に生まれ,清原宗賢の養子となり家業を継ぐ。号は環翠軒(祖父業忠と同じ)。文明12(1480)年3月,主水正,大炊頭を経て18年7月に蔵人に補せられ,明応9(1500)年6月従五位下,翌文亀1(1501)年1月直講となり,同年閏6月少納言に任ぜられ,永正1(1504)年昇殿を許される。8年には知仁親王(後奈良天皇)の侍読となり,大永1(1521)年4月には祖父業忠の例を襲って従三位に叙せられ,翌2年侍従,6年11月正三位となる。享禄2(1529)年2月大徳寺で剃髪,宗尤と号した。致仕後は京都で儒典を講ずるかたわら,北陸の地にしばしば足を運ぶ。3年能登の畠山義総邸で『中庸章句』を,天文1(1532)年には若狭小浜の栖雲寺に於て,守護武田氏のために『孟子』を講じた。14年,越前朝倉氏の招きで一乗谷を訪れ,『古文孝経』を講じ,同地に没した。墓は福井市禅林寺にある。 学風は新古折衷学派で,その訓釈資料の多くが清原家の嫡流舟橋家に伝えられ,京都大学蔵の清家文庫に伝存している。清原家の経学を集大成した功績は大きく,清原家証本の作成,注解のための抄物の作成,書写活動,盛んに講筵を開くなどしたことが特筆される。彼の書写したものに桃源瑞仙『史記抄』,竺雲等連『漢書抄』,一柏現震『易学啓蒙通釈口義』,一条兼良『日本書紀纂疏』,吉田兼倶『日本書紀抄』,佚名述『胡曾詩抄』などがある。多芸多能で,多方面に活躍し,吉田兼倶の神道学を祖述した『日本書紀神代巻抄』,三条西実隆の伊勢物語講釈の聞き書き『伊勢物語惟清抄』などを遺している。『塵芥』や『詞源要略』などの辞書の編纂にも当たった。また当時分国法の母法として重んじられた御成敗式目の注『貞永式目抄』を著した。景徐周麟ら五山禅僧の催した詩筵にも連なっている。<参考文献>山田英雄「清原宣賢について」(『国語と国文学』34巻10号)
出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報
清原宣賢 (きよはらのぶかた)
生没年:1475-1550(文明7-天文19)
室町後期の学者。父は吉田兼俱で,清原宗賢の養子となる。儒学・神道・明法道・国文学等多方面に明るく,《日本紀神代巻抄》《倭朝論鈔》《式目抄》等多くの著作がある。号は学統をうけつぎ崇敬する祖父清原業忠の環翠軒を用いた。1550年越前国の朝倉氏城下一乗谷で没し,今も五輪塔の一部が現地に残っている。法名は宗尤。清原氏は後世舟橋氏を名のるので舟橋宣賢とも呼ばれる。
執筆者:清田 善樹
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清原宣賢
きよはらののぶかた
1475~1550.7.12
戦国期の儒学者。吉田兼倶(かねとも)の三男。清原宗賢の養子。環翠軒と号す。法名は宗尤。朱子の新注をとりいれる新古折衷的な家学をさらに進め,五山僧の講義も参考にして徹底した。京都で公卿や将軍家・五山僧らに講義し,能登国畠山氏・若狭国武田氏・越前国朝倉氏などの求めで講義に赴き,地方の文化発展にも大きく寄与。そのために作成した「孝経抄」「左伝抄」「周易抄」などの抄物が多数現存し,また三条西実隆に学んで「伊勢物語惟清抄」を著し,「塵芥」「詞源要略」などの辞書を編纂,さらに実父の神道説を祖述した「日本書紀神代巻抄」や,「御成敗式目」に対する興味から「貞永式目抄」を著すなど多方面に活躍した。越前国一乗谷で死去。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
清原宣賢
きよはらのぶかた
[生]文明7(1475)
[没]天文19(1550).7.12. 越前,一乗谷
室町時代後期の学者,舟橋を家名としたので,舟橋宣賢ともいう。吉田兼倶の3男。清原宗賢の養子となる。号は環翠軒。法名は常広。儒学に秀で,主水正,大炊頭,直講,蔵人を経て,大永2 (1522) 年侍従に進み,同6年正三位に叙せられた。講義の際,五経,『論語』には古注を用い,『大学』『中庸』には朱注を用いたという。また神道,国学にも通じ,『日本書紀神代巻抄』のほか,『伊勢物語』の注釈や『貞永式目抄』などの著書がある。享禄2 (29) 年剃髪した。
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清原宣賢 きよはらの-のぶかた
1475-1550 戦国時代の儒者。
文明7年生まれ。吉田兼倶(かねとも)の3男。明経(みょうぎょう)道の清原宗賢(むねかた)の養嗣子。正三位,侍従。享禄(きょうろく)2年出家。証本,注釈書の作成,研究書の書写,講義などを通じて清原家の経学を集大成する。越前(えちぜん)朝倉氏にまねかれ,天文(てんぶん)19年7月12日同地に没した。76歳。号は環翠軒。法号は宗尤(そうゆう)。著作に「日本書紀神代巻抄」「貞永式目抄」ほか多数。
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清原宣賢
きよはらのぶかた
1475〜1550
戦国時代の儒者
舟橋宣賢ともいう。吉田(卜部)兼倶 (かねとも) の子で清原宗賢 (むねかた) の養子。明経 (みようぎよう) 道の家学を継ぎ,新古2注の解釈により新生面を開く。また神道では『日本紀神代巻鈔』を著し,御成敗式目の注釈書『式目抄』をも著す。晩年は越前朝倉氏に招かれ,地方文化の興隆に貢献した。
出典 旺文社日本史事典 三訂版旺文社日本史事典 三訂版について 情報
世界大百科事典(旧版)内の清原宣賢の言及
【式目抄】より
…《御成敗式目抄》ともいう。[清原(舟橋)宣賢](のぶかた)の著作。1534年(天文3)成立。…
※「清原宣賢」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」