中国,漢代の西域のオアシス都市国家。原名はクロライナKroraina。その都城址は,新疆ウイグル(維吾爾)自治区ロプ・ノール(羅布泊)の北西にある。楼蘭の名は,前176年(文帝の4年),匈奴(きようど)から漢に送られた書簡の中にはじめて登場するが,以後も,匈奴・漢両国の支配下に置かれることが多く,前77年(元鳳4)には漢によって国王が殺害され,国号も楼蘭から鄯善へと改められた。前1世紀の鄯善,すなわち楼蘭(クロライナ)の戸数は,1570戸,人口は1万4100と伝えられ,当時の西域のオアシス諸都市の中では中程度の規模であった。しかしクロライナは,後1世紀になると,匈奴,後漢,ヤルカンドなどの干渉を受けつつも,しだいにその南方および南西方の崑崙山脈北麓に位置した且末(チャルマダナ,チェルチェン),小宛,精絶(チャドータ,ニヤ),戎盧などの諸オアシス都市国家を併合して,ロプ・ノール沿岸から西はチャドータに至る広大な地域を支配下に置く鄯善王国の首都となり,この状況は,以後ときに魏,晋,西涼等の進出の時期(大谷探険隊によって将来され,現在竜谷大学図書館に所蔵されている有名な〈李柏文書〉は,328年前涼の西域長史李柏が,ロプ・ノール西岸の海頭から焉耆(えんぎ)王に送った書簡の草稿である)があったにしても,少なくとも4世紀末までは続いたものと思われる。
4世紀末にこの一帯を通過した法顕の記録するところによれば,当時クロライナには小乗仏教を奉ずる国王と4000人の仏僧がいたことが知られ,この僧の数からしても,かなりの都市に成長していたことが推定される。また20世紀の初頭,A.スタイン,S.ヘディンらがこの鄯善王国領内の砂に埋もれた諸遺跡(ニヤ,エンデレ,クロライナ)から発見した782点にのぼる〈カローシュティー文書〉によって,3~4世紀の鄯善王国では,公用語として,西北インドの俗語であるプラークリット語が使用され,クロライナに居住した〈大王,王中の王,……〉を中心にかなり強力な中央集権的な政治体制がとられていたことが知られる。プラークリット語の使用は,当時この地域に,かなり多数のインド系の住民が居住していたことを示唆するものである。さらに,スタインが王国領内のミーランで発掘した寺院址の壁面に描かれた〈有翼天使像〉などの諸壁画は,この地方の美術とガンダーラなど西方美術との関連を明確に示す作品として特に名高い。
しかし5世紀以降,鄯善王国は,相ついで北魏,吐谷渾(とよくこん),丁零,蠕蠕,高車(こうしや)など異民族の侵入を受けて独立国としての立場を失い,6世紀以後は,敦煌・トゥルフアン(吐魯番)間の交通路として,従来のクロライナ経由に代わるハミ(哈密)経由の交通路が発達したこともあってしだいに衰え,7世紀のソグド人らによるクロライナ地方への植民活動も,この地方に昔日の繁栄をとりもどすにはいたらず,やがて荒廃したこの地方は,おしよせる砂漠の砂嵐の下に姿を没し,その存在についての記憶すら,人々の脳裏から徐々に失われていった。
執筆者:間野 英二
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中国、新疆(しんきょう)ウイグル自治区、タリム盆地東端の古代遺跡。『漢書(かんじょ)』西域(せいいき)伝にみえる鄯善(ぜんぜん)国の旧名。タリム川の末端であるロプノールの西北岸にある。敦煌(とんこう)から西方に向かうと、まず到達するのがこのオアシスであり、古来、シルク・ロードの要衝として繁栄した。紀元前176年ころ匈奴(きょうど)の支配下に入ったが、前漢が西域への進出を図るとともに、漢と匈奴の抗争の地となり、前108年、漢の趙破奴(ちょうはど)は匈奴を駆逐して征服し、楼蘭王を捕らえたので、以後楼蘭は漢と匈奴に両属した。その後も楼蘭はしばしば漢使を迫害したので、前77年、漢は傅介子(ふかいし)を送って王を殺し、王弟の尉屠耆(いとき)を王とし、国名を鄯善と改めた。以後この国は漢史には鄯善国の名で現れ、後漢(ごかん)時代に入っても班超(はんちょう)に服属した。2世紀末か3世紀初め、この国は西方から到来したクシャン朝の移民団に征服され、公文書にカローシュティー文書(もんじょ)(ガンダリー語)を使用する統一国家となった。その領域は東はロプノール周辺から西はニヤ遺跡まで、東西900キロメートルに及ぶ大国であった。この文書によると、この時代に楼蘭はペーピヤ、タジャカ、アムゴーカ、マヒリ、バスマナという5人の王が君臨していた。この国は大王の下に複雑な官僚機構をもち、チャルマダナ、サチャ、チャドータなどのオアシスを支配し、各オアシスにはチョジボー(地方長官)やソータムガ(徴税官)が任命され、駅伝制が置かれていた。ニヤのようなオアシスはラーヤ(王領)とよばれ、そこには町(ナガラ)と村(アバナ)があり、税としてバター、ヒツジ、穀物、ぶどう酒、フェルト、カーペットなどが徴収された。宗教としては仏教が盛んで、各オアシスに僧団が置かれ、それぞれ首都クロライナ(楼蘭)の僧団に統率されていた。僧侶(そうりょ)は官職につき、妻帯を許され、土地・奴隷を有して豊かな生活を送っていた。クロライナ南方のミーラン出土の壁画は、この国の文化がきわめて西方色豊かであったことを示している。
楼蘭西端のニヤは4世紀に滅んだらしいが、楼蘭王国は4~5世紀、中国の中原(ちゅうげん)王朝と冊封(さくほう)体制を結び繁栄した。しかし439年、北魏(ほくぎ)が涼州にあった北涼を滅ぼしたため、442年その残党が楼蘭を攻め、その3年後には北魏の万度帰の軍が楼蘭を占領した。その結果、448年には北魏の交趾(こうし)公韓牧(かんぼく)が新しい王として赴任した。この地方はオアシスとしては、この後もしばらく命脈を保つが、7世紀以降は廃墟と化した。
[長澤和俊]
『長澤和俊著『楼蘭王国』(1976・第三文明社)』▽『ヘルマン著、松田寿男訳『楼蘭』(平凡社・東洋文庫)』
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西域の国名。クロライナ(Kroraina)の音訳。東トルキスタンのロプ・ノールの西北に位置し,タリム盆地の中国に最も近いシルクロードの要衝として栄えた。紀元前2世紀以来,漢と匈奴(きょうど)は東西貿易の主導権をめぐって争ったが,前77年漢は楼蘭を鄯善(ぜんぜん)と改め属国とした。しかしロプ地方の乾燥化に伴い荒廃し,無住の地と化した。20世紀初頭ヘディンによってその遺跡が発見され,その後スタインや大谷探検隊,さらに中国の調査隊により魏晋時代の漢文文書やカロシュティー文書(カロシュティー文字)も収集された。その解読や考古学的調査によって実態が明らかにされつつある。
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