古代チベット王国(吐蕃(とばん))を統一支配し、のちに観音(かんのん)の化身と称された王(在位?~638、643~649)。正式名はチソンツェン(棄宗弄讃)王であり、毒殺された父ナムリルンツェンにかわってチベットを統一し、6種の大欽定(きんてい)法を定めて国内の統治制度を確立した。吐谷渾(とよくこん)などにも支配の手を伸ばし、ついに唐と対峙(たいじ)するに至るなかで、名宰相ガル・トンツェン・ユルスン(禄東賛)が活躍した。のちにトゥルナン寺(大昭寺)を建立したネパール王女ティツゥンKhri btsanらを妃(ひ)とした。また634年には初めて唐に使節を送り、公主との婚姻を求めたのに対し、640年には文成公主が王の長子に降嫁して、長子の没後に王と再婚し、ラモチェ寺(小昭寺)を建立している。後代の伝承では、この王を仏教導入の立役者とするが、史実とは認めがたい。国家統一と、位階や刑法の制定など大欽定法に代表される国家統治に大きな業績を残し、以後の王国発展の基礎を築いた。
[原田 覺 2017年4月18日]
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チベット古代王国を建てた王。620年代に日本の冠位十二階に酷似した官位12階制を設けて諸氏族をその下に統一支配した。638年唐と戦って吐谷渾(とよくこん)を分割統治し,640年その子クンソン王に文成公主をめとらせ,またネパールを制圧して,中国,ネパールの文物制度を学び,クンソン王の没後に再登位して西チベットを支配し,646年公主と再婚して唐に忠誠を誓ったが,まもなく没した。
執筆者:山口 瑞鳳
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…19世紀末ロンドンにパーリ聖典協会Pāli Text Societyが設立されて原典の校訂出版等がなされ,日本では若干の蔵外文献も含めて《南伝大蔵経》65巻(1935‐41)に完訳されている。
[チベット大蔵経]
仏典のチベット語訳は,7世紀ソンツェン・ガンポ王の時代にトンミサンボータによって始められ,13世紀ころには大蔵経が木版で刊行された。チベット大蔵経はカンギュル(甘殊爾)とテンギュル(丹殊爾)からなり,前者は経・律,後者は論を収める(カンギュル・テンギュル)。…
…隋の時代にその存在が漢土に伝えられ,唐代に〈吐蕃(とばん)〉と呼ばれたのは,このチベット人が建てた最初の統一王国であった。
[吐蕃王国]
この国はソンツェン・ガンポと呼ばれる王によって七世紀前半に建てられ,隋・唐2代の圧力によって滅亡の危機にあった吐谷渾(とよくこん)を併合し,代わって7世紀後半から東西通商路の東端と南縁の支配に乗り出した。それ以前に,彼らは固有の文字をつくり,官位十二階を定めて,その階層構造の中で諸部族を統合支配する法令を定め,王の君臨を受けた。…
…〈チベット〉の称と同様にタングート(党項)等の〈拓跋(たくばつ)〉氏に由来するという説から,王家が他の一族より南部に拠ったので,その部族名〈ピャphyva(不夜)〉に,〈南〉を意味する〈トlho〉を冠したlho phyvaの称ができて〈吐発〉と写され,蔑視的な立場から,さらに〈吐蕃〉とされたとする説まである。 チベット人は,建国の王ソンツェン(ソンツェン・ガンポ)以前ヤルルン地方に23代の王が拠ったと数えるが,漢文史料に伝えるように6代しかなかったらしい。ボン教系史料の確かなものによると,その祖先は女国と通婚していたことが知られる。…
※「ソンツェンガンポ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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