中国,春秋末期から戦国期にかけての,ほぼ300年間に活躍した思想家群をさす。《史記》賈誼(かぎ)伝にみえる語。〈諸子〉とは,この期に独自の思想をかまえ,専門の学説を樹立した術芸の学士たちの意。〈百家〉は,その専門の流派の多さを象徴的に表現した量詞。またのちに,この専門家の著述を,儒教の〈経〉典や〈史〉書から区別して一括し,〈子〉部の書とよぶ。
秦・漢期以後の思想家の源流は,おおむね〈諸子〉の活動期にもとめることができる。相手の名称をあげて専門思想家を対比して批判するのは,戦国末期の《荀子》非十二子篇,《韓非子》顕学篇や《荘子》天下篇などに見える。ことに〈儒墨〉(儒家学団と墨家集団)とが並称され,その二大勢力を誇ったさまを伝えている。また,〈諸子〉を陰陽之術,儒者,墨者,法家,名家,道徳の6専家に分類したのは,前漢初期,司馬遷の父,司馬談の〈六家(りくか)之要指〉(《史記》太史公自序)にはじまる。そこには,この6家の長所と短所が要領よく紹介され,道家を他の5家の長所をかねる卓越した術芸とするのにひきかえ,儒家はより劣った学術にすぎず,墨家集団はすでに没落したことを告げている。
《漢書》芸文志には,国家教学と化した儒家の奉持する経書(けいしよ),つまり〈易(えき),書,詩,礼,楽,春秋〉とそれを補助する〈論語,孝経〉などを,劉漢王朝の国家学〈六芸(りくげい)〉として別格にあつかい,その他の学派を百家九流(きゆうりゆう)の〈諸子〉に分属している。これは,劉向・劉歆(きん)父子が,前漢後期,宮廷の蔵書を整理し,その解題〈別録〉と7分類の書目〈七略〉を作成したのを班固がこの類目にそって〈芸文志〉を〈六芸略,諸子略,諸賦略,兵書略,術数略,方技略〉の順に編成したのである。そのうち〈諸子略〉は,経書以外の〈儒〉家の書を筆頭に,〈道・陰陽・法・名・墨・従横・雑・農・小説〉の10家者流にまとめた。
この流派の出現を〈芸文志〉は,周の王道が衰微し,諸侯がそれぞれ強国化をはかったため,一技芸を売りこむ術策の士たちの奔走をみた結果とし,〈諸子〉はもと周王朝の中央職官〈王官〉の系統を引く,たとえば道家は史官から,従横家は行人(こうじん)の官からくる,として諸学説は窮極的に〈六芸〉を補充すべき一部分を担うと評定し,うち参考となる学術は,小説家を除いて9者つまり〈九流〉に限定された。これは〈諸子〉に部分的評価を与えることによって,当時の国教〈六芸〉の権威をより高めるための仮託であろう。
〈諸子〉の活動は,諸侯群立の城邑国家体制から君主専制の領土国家への移行期にあたり,従来の氏族制の解体過程のなかに生まれた,城邑体制から自由な士人知識層がその担い手であった。君主権の強化と富国強兵による領土国家の拡張を望む為政者は,その治民,財政,軍事などに有能な人材を要求し,彼ら知識層の活躍を促した。彼らは各国の為政者が悩む内外の事件に解決の方策を提供し,各自の信ずる政策を入説した。また,彼らを保護した有力君主も出現,たとえば斉の威王・宣王(在位,前378-前324)らは臨淄(りんし)の都城の稷門(しよくもん)付近に参集した〈文学の士〉に邸第を与え,仕官を条件とせず自由討議をさせている。この〈稷下の学士〉には,騶衍(すうえん),騶奭(すうせき),淳于(じゆんうこん),田駢(でんべん),接子,慎到,環淵や〈管子〉学派があり,孟子や荀子の徒ものちに名を連ねた。この九流の学士たちは,互いの接触を通じて説話の比喩や弁争の論理をみがき,学説の相互理解も深まり,相手の理論を自己の主張に組み入れて他派に優位に立とうとした。戦国期を通じての名,道,墨(墨弁),儒(荀子)をつらぬく論理学や,戦国末・秦・漢期の,儒家と法家,法家と道家などの間に,接近・浸透の現象がいちじるしい。
百家争鳴の〈諸子〉のうち,戦国七雄を統合して古代秦漢帝国の実現に最適の理論を提供したのは,専制統治論を展開した法家であった。それは軍事的体制のもとで効果を発揮したが,統一国家の出現後,その維持には国家権力の行使をスムーズにして民心を安定させる道家系の黄老思想が流行した。儒家は,さらに巧妙に新事態に対処した。漢初,高祖のために宮廷儀礼を定めた叔孫通をはじめ,陸賈(りくか)や賈誼は法刑よりも恩徳の優先が漢政権を永続させる条件であることを力説した。武帝期には董仲舒(とうちゆうじよ)が天人相関の陰陽理論にもとづく春秋災異思想によって,国事の適否を判断し,国家政策の基本方針を合理づけた。これらの努力によって,儒家は国家教学として五経博士の学官を独占し,排他的に保護された。国教となった儒家は,道家・陰陽家の理論を習合した五経6種の経書を国家学〈六芸〉の位置にすえ,ことに〈易伝〉による宇宙論によって,天地人-自然の運行と国家・社会のあり方,をつらぬく形而上学を築いた。前漢後期,暦数を媒介に〈易〉の象徴と数理つまり〈象数〉により,政治・人事上のあらゆる現象が予見されるとして,〈春秋〉学とならんで〈易〉学が国家学の頂点に立った。かくて,諸子百家の時代は去り,以後,中国の王朝政治体制下において,政治思想としては儒家以外には公認されなかった。
執筆者:戸川 芳郎
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中国、戦国期を中心とする時代に輩出した諸種の思想家。またはその典籍。この語の由来に関し、一説に班固(はんこ)の『漢書(かんじょ)』芸文志(げいもんし)の諸子略に189家、4324編の書が著録されている事実を根拠とし、百家を189家の概数的表現と解する。だが、『史記』賈誼(かぎ)伝に「頗(すこぶ)る諸子百家の学に通ず」というのがその初出の例である以上、百家は単に諸子の数の多いことを意味すると考えられる。
諸子とは、書目(しょもく)では経書や史書などと対置されるのだが、本来はもろもろの学士をさす。その本格的な学派分類は、司馬遷(しばせん)の父、談の六家(陰陽家(いんようか)、儒家(じゅか)、墨家(ぼくか)、名家(めいか)、法家、道家(どうか))、および班固の十家(儒家、道家、陰陽家、法家、名家、墨家、縦横家(じゅうおうか)、雑家、農家、小説家)に始まる。『隋書(ずいしょ)』経籍志では、兵、天文、暦数、五行(ごぎょう)、医方の5類が付加される。先秦(せんしん)時代の諸子に限っていえば、かかる後代の尺度による分類は、かならずしもその実態の把握に直結しない。なぜなら、いわゆる諸子百家のうち学派とよぶにふさわしい実質を備えていたのは、儒家と墨家の両派のみであったと推測されるからである。したがって、十家などの分類は、諸子の大まかな思想・学説の傾向を示したものにすぎない。戦国期に諸子の輩出した原因としては、各国君主が混迷の時代を乗り切るための方策を求めていたことや、それに伴う活発な精神を基調とする下剋上(げこくじょう)の風潮などをあげることができる。
[伊東倫厚]
中国で前5~前3世紀に現れた諸学派の総称。儒家,墨家(ぼっか),農家,道家,陰陽家(いんようか),法家,名家,縦横家(じゅうおうか),兵家,雑家などに分けられるが,特に陰陽家の五行説は百家のすべてに応用された。春秋・戦国期の旧秩序崩壊による不安,疑惑から出発し,国家社会秩序の再建方法を目的として興ったが,思想言論の黄金時代をつくり,中国学術の源泉となった。前4世紀中頃から約100年間,諸学派の一大中心地は斉の都臨淄(りんし)であった。
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…老子や荘子の考えは,道を根本として構成されるので,道家とよぶ。このほか論理学を説く名家,陰陽論を説く陰陽家,上述の蘇秦・張儀のごとく外交術を説く縦横家,農業技術や農民思想を説く農家など多くの流派の思想家が活躍し,互いに影響しあい,中国史上最も自由に思想が説かれた時代であり,これらを諸子百家と総称するが,後世に大きな影響を与えたのは儒家と道家であり,法家は思想として表面にあらわれなかったが,儒家の徳をたてまえとする政治を支える技術としてつねに利用された。 このように多様な思想が自由に展開したのは,人間精神の躍動を示すものであり,これは芸術にもあらわれた。…
…これが儒教の根本精神となったのである。 孔子の直後に戦国の諸子百家の時代が始まる。諸子百家とは何か。…
…《書経》が中国の散文の起源となったのと並んで《詩経》は韻文のはじめをなす古典となった。
[諸子の文学と歴史の文学]
前8世紀に始まる春秋戦国の時代は政治上では分裂の時代だが,文字の知識が少数者の手から貴族全体へ,さらに下級の士へと移り広まるにつれて多数の思想家が現れ,〈諸子百家〉の種々の学派を形成した。思想家と門人たちとの対話が記録され(その最初は《論語》である),前4世紀には組織的な著作もあらわれた。…
※「諸子百家」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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