善正寺(読み)ぜんしようじ

日本歴史地名大系 「善正寺」の解説

善正寺
ぜんしようじ

[現在地名]矢部村北矢部

御側おそば川筋、殊正寺しゆしようじにある。真宗大谷派。歓喜山と号し、本尊阿弥陀如来。正保三年(一六四六)福島ふくしま(現八女市)正福しようふく寺末として建立されたという(寛文十年寺社開基)。その所在地が殊正寺の伽藍下がらんしたであることから、当寺以前の古寺が想定される。境内の樹齢六〇〇年という大槙の下に永禄(一五五八―七〇)銘の宝篋印塔・五輪塔が多数残されるが、「筑後将士軍談」に「前武州大守桐岳宗栂禅定門墓 永禄十年」とあり、この墓は永禄一〇年九月三日に休松やすみまつ(現甘木市)で戦死した大友側の五条氏一族清原武蔵守(「五条鎮定軍忠着到状」五条家文書など)のものとされる。


善正寺
ぜんしようじ

[現在地名]糸魚川市砂場

砂場すなば集落にある。上宮山と号し、真宗大谷派、本尊阿弥陀如来。寺伝によればもと高野山真言宗宝寿ほうじゆ院と称し、日光につこう寺の分れという。天文弘治(一五三二―五八)の頃上杉氏の臣園田成忠なる者が出家して善正と号し、本願寺顕如に従って石山合戦に功があり、本尊・寺号を賜ったという。天和三年(一六八三)検地帳によると、太子領として高三石三斗余が当寺の支配で、ほかに地蔵堂・善正寺・宗林そうりん寺に除地が認められている。


善正寺
ぜんしようじ

[現在地名]松原市天美我堂七丁目

真宗大谷派、長谷山と号し、本尊阿弥陀仏。長谷山古今言行録(当寺蔵)によると、もと摂津国住吉郡平野ひらの(現平野区)にあり、金剛乗こんごうじよう院といって真言宗であったが、明応年中(一四九二―一五〇一)三好順慶の子了道が蓮如に帰依し、城連寺じようれんじ村に移って浄連寺と号し、真宗に改宗した。のちに寺号を善正寺と改めた。元和二年(一六一六)住持の順欽と順恵が不和となり、順欽が親鸞顕如の絵讃を持ってすな(のちの油上村・芝村)に移り、さらに寛永一八年(一六四一)西我堂にしがどう村へ移転した。


善正寺
ぜんしようじ

[現在地名]匹見町匹見

広見ひろみ川と匹見川の合流点付近に位置。竜光山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。創建は室町時代末期とも、慶長一二年(一六〇七)ともいわれ、開基は劉道器とされる。安芸国吉和よしわ(現広島県吉和村)に建立され、劉道器が移したものという。八代唯然の文化二年(一八〇五)に類焼し、同一三年に再建された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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