無量寿寺(読み)むりようじゆじ

日本歴史地名大系 「無量寿寺」の解説

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]鉾田町鳥栖

鳥栖とりのす南東丘陵上、南にともえ川を見下ろす山上突端にある。光明山と号し、浄土真宗本願寺派。本尊は阿弥陀如来。二十四輩の第三番。

大同元年(八〇六)に平城天皇の勅願寺として創立され、最初は三論宗に属し、無量院無量寺と称したと伝え、のち元久元年(一二〇四)領主の村田高時が堂宇を再建、禅宗に改め、本尊を聖観音としたという。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]知立市八橋町 寺内

東海道から北約五〇〇メートルほどの深い木立に囲まれる。西に日吉山王ひよしさんのう社が隣する。八橋山と号し、臨済宗妙心寺派。本尊十一面観世音菩薩。

寺伝によると、慶雲元年(七〇四)の創立で、初め東海山慶雲けいうん寺という真言宗の寺で、鎌倉街道、往昔の東海道の下馬山げばやま付近にあった。その後火災に遭い、弘仁一二年(八二一)密円のとき勅命によって野路のじ宿入江いりえ浦に七堂伽藍を造営し、東海山無量寿寺と改めたと伝え、当時境内に塔頭十有六院あったという。延喜二年(九〇二)山号を八橋山と改め、現在地に移り、真言寺院として栄えた。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]真岡市下籠谷

中里なかざとにあり、常在山極楽院と号し、天台宗。本尊阿弥陀如来。寺伝によれば、永和元年(一三七五)高田山専修せんじゆ(現芳賀郡二宮町)定恵の法弟である定祐が開基となって、籠谷こもりや村芳賀林寺山の地に草庵を建て、専修寺所蔵の一光三尊阿弥陀如来を安置して民衆教化の道場とした。天正年代(一五七三―九二)の末に芳賀氏の一族籠谷伊勢守政高が大檀那となり、中里に伽藍を建て、阿弥陀如来を本尊とし、寺号を無量寿寺と定め天台宗に改めたという。近世の初めに幕府から朱印地七石余、除地若干の寄進があった。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]新宮市新宮

千穂ちほヶ峯の東麓にある。臨済宗妙心寺派。本尊は阿弥陀如来で、脇士の観音・勢至両菩薩像とともに行基の作と伝える。もと尼寺。創建年代について「続風土記」は不詳とし、南北朝時代より熊野地方を統治した熊野七上綱家の息女が、尼僧となって当寺の住職を勤めたと記す。一説にもとは尼寺ではなかったが、近世初頭に七上綱に代わって熊野地方を領した堀内氏善の息女が当寺に入り以後尼寺となったという(新宮市誌)。また新宮藩御勘定方旧記(和歌山県史)には堀内氏善の息女が初代住持とあるが、当寺の位牌には「開基前雲州大守関芝宗応大居士 慶長十一丙午年三月廿三日」とあり、浅野忠吉の長子出雲守を開基とする。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]小樽市稲穂五丁目

浄土宗。延命山と号する。本尊は阿弥陀如来。小樽郡熊碓くまうす長昌ちようしよう寺の信徒中に発展著しい稲穂いなほ手宮てみや方面に新たに浄土宗寺院を設ける動きがあり、明治一七年(一八八四)に創立、寺号公称が許された(同一九年「無量寿寺創立転地願」当寺蔵)。開山大谷玄超(大分県出身)は小樽・岩見沢・滝川・札幌などで寺院の建立に関与した。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]草津市青地町

鼈甲山称行院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。寺記によれば、舒明天皇一二年、宮中で「無量寿経」を講じた恵隠の開基と伝え、その後退転久しかったが、のち金勝こんぜ阿弥陀寺(現滋賀県栗東町)の末山となり、天文元年(一五三二)行誉浄運が中興、境内は東西七〇間・南北九〇間であったという(享保七年「鼈甲山無量寿記」寺蔵)。恵隠の開基とするのは、恵隠の無量寿経講説と寺名とを結び付けた後世の付会であろう。角之坊・金福院の二塔頭があったが、永禄年中(一五五八―七〇)に壊された。享保年間(一七一六―三六)演誉林中のとき、累代の檀越奥村氏・井口氏の外護を得て寺観が整い、文政一三年(一八三〇)に再造営された。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]五霞村小福田

小福田こふくだ南部に所在。東前山福田院と号し、浄土宗。本尊阿弥陀如来。俗に土塔どとうの寺と称する。寺伝によると開山は持阿良心で、正和二年(一三一三)の創建。相馬氏の帰依を受けて堂塔伽藍を整え、境内は広大であった。天正年間(一五七三―九二)などの兵火で焼失し、一時無本寺となって土塔檀林と称したが、宝永三年(一七〇六)に現結城市の弘経ぐぎよう寺末となる。正徳二年(一七一二)総本山京都知恩院の直末となった。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]西尾市平坂町 奥背戸

平坂へいさか町の中央北端に位置し、羽塚山と号し、真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。もと天台宗。開山は源三位頼政の後裔大河内源太夫国礼、出家して源光御坊了善。矢作やはぎの柳堂(現岡崎市)で親鸞に帰依して転宗、大河内山無量寿寺と称す。羽塚はつかの里にあったが、弘治元年(一五五五)平坂に移り、羽塚山無量寿寺と改称して現在に至る(羽塚山無量寿寺系図之控)

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]余市郡仁木町北町

余市よいち川右岸にある。真宗大谷派。本尊阿弥陀如来。明治一六年(一八八三)仁木村に最初の説教所が開設。同二〇年本願寺派の小樽別院に引継がれ、同別院から僧侶が派遣されていた。同二六年の門徒数一八〇戸・八〇〇人余。同二九年光妙山無量寿寺の公称が許され、本堂の改築、庫裏の新築に着手、同三〇年に落成。

無量寿寺
むりようじゆじ

[現在地名]前橋市二之宮町

二之宮にのみや赤城神社の南東約三〇〇メートルにある。筑波山と号し、真言宗豊山派。本尊は阿弥陀如来。延喜年間(九〇一―九二三)の創建とも伝えるが、寺伝では明応三年(一四九四)隆舜の開基といい、古くは山号を修密山と称したという。その後数度の火災で記録類を焼失。一七世紀末期に江戸の筑波山護持ごじ院の隆光(興)により再興され、山号を改め、大いに繁栄したという。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の無量寿寺の言及

【知立[市]】より

…工業は紡績,機械などに代わって78年以降輸送機器の製造品出荷額が首位を占めるようになった。重要文化財の多宝塔をもつ知立神社,カキツバタで有名な無量寿寺がある。《伊勢物語》に記された東部の八橋は歌枕として知られる。…

【八橋】より

…以後,多くの和歌や紀行にとりあげられ,また尾形光琳の名品《八橋図屛風》《八橋蒔絵硯箱》の意匠となっている。八橋の古跡という八橋山無量寿寺の杜若池の庭園は著名。【奥村 恒哉】。…

※「無量寿寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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