福岡県中央部の市。2006年3月山田(やまだ)市と稲築(いなつき),碓井(うすい),嘉穂(かほ),の3町が合体して成立した。人口4万2589(2010)。
嘉麻市北端の旧町。旧嘉穂郡所属。人口1万9160(2005)。北は飯塚市に接する。東・西・南の三方を丘陵性の山地に囲まれ,南西部を遠賀川,南東部を山田川が北流し,町北部でY字形に合流する。1889年三井山野鉱山が開鉱し,1913年の国鉄後藤寺・漆生両線の開通(漆生線は廃線)とあいまって筑豊炭田有数の大炭鉱町として急激に発展,41年町制を施行した。しかし,本町発展の原動力であった山野鉱が63年に大幅に縮小,73年には完全閉山し,最盛期に4.5万を数えた人口は半減,鉱害の後遺症も残した。その後,西部丘陵地帯へ軽工業中心に企業誘致が図られ,炭鉱の町から工業の町へと転換した。また住宅団地の造成が進み,住宅都市的性格を備えつつある。
嘉麻市北西部の旧町。旧嘉穂郡所属。人口6013(2005)。直方平野の南端に位置する。南西部は丘陵が起伏し,中東部は遠賀川支流の嘉麻・千手両川が北流し沖積低地が開ける。明治中期以降,炭鉱町として大きく発展し,1941年に町制を施行した。石炭産業全盛時には,8.4km2の町域に1.2万人の人口があった。しかし,その後の石炭産業崩壊により全炭鉱が閉山され,人口が急減,鉱害など深刻な打撃を受けた。その後,工業団地への企業誘致に取り組み,また隣接する桂川町への篠栗線の開通(1967)によって福岡市への通勤も可能となった。農業も鉱害水田の復旧が徐々に進められ,米作を中心に生産基盤が整備されつつある。中心集落の上臼井には秋月藩主の菩提寺永泉寺があり,平山地区に伝わる獅子舞は県の無形文化財に指定されている。
嘉麻市中南部の旧町。旧嘉穂郡所属。人口9722(2005)。南は朝倉市に接する。南部は古処,馬見など筑紫山地の山々が占め,そこを源とする遠賀川支流の嘉麻・千手両川が北流し,河川沿いに谷底平野が発達している。中心の大隈はかつて筑前と豊前を結ぶ街道の宿場町,市場町であった。明治以降,石炭産業の進展により町内に炭鉱が開発されたが,近隣市町の炭鉱への労働力供給地としても発展し,人口増がみられた。しかし,1955年以後の石炭合理化政策による閉山のため過疎化に転ずる。農林業が基幹産業で,米のほかに野菜,果樹を産し,酪農も盛んである。総面積の7割を占める山林は杉,ヒノキの良材を産する。益富城跡のほか古社寺,旧跡が多い。南端の古処山には,ツゲ原始林(特天)があり,筑後川県立公園に含まれる。
執筆者:松橋 公治
嘉麻市北東部の旧市。1954年市制。人口1万1034(2005)。筑豊南端の炭鉱業で発達した市。遠賀川の最上流域で,標高100~200mの炭層を含む第三紀層の丘陵が広く分布し,中央を北西流する山田川の浅い谷に細長い市街が立地する。明治中期まで人口約1400の寒村であった。1894年,日清戦争を契機に古河鉱業(現,古河機械金属),続いて三菱鉱業の両大手炭鉱が開かれてから急激に発展し,鉄道(上山田線)も98年に下山田,1903年に上山田まで通じた(1988廃止)。その後両鉱の拡大や中小炭鉱の開坑が相つぎ,筑豊炭田の中核的炭鉱都市となった。1940年には炭鉱数20余,年間出炭100万t,人口3万5000に達した。第2次大戦後いち早く復興し,50年には就業者全体の76%が炭鉱業に従事していた。しかし50年代末からの石炭産業合理化政策によって炭鉱が失業者を多発しながら相ついで閉山し,人口は激減し深刻な打撃をこうむった。60年代中ごろから産炭地域振興のためゴム靴,窯業,食品などの十数企業が誘致されて工業化が進められるとともに,酪農やブドウ栽培も盛んになっている。北西部の大法山一帯はハイキングの適地で,近くに安国寺や梅林公園がある。
執筆者:土井 仙吉
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
福岡県中部にある市。2006年(平成18)、山田市と嘉穂(かほ)郡稲築町(いなつきまち)、碓井町(うすいまち)、嘉穂町が合併して成立。市名は古代以来の嘉麻郡の郡名による。南部は朝倉(あさくら)市との境にそびえる古処(こしょ)山、馬見(うまみ)山などに続く山地。上流部を嘉麻川ともいう遠賀川(おんががわ)が、南東端の朝倉郡東峰(とうほう)村境にある嘉麻峠に発し、市域中央を貫流。同川や支流山田川などの流域に平地が広がる。JR後藤寺(ごとうじ)線が北端部をかすめ、下鴨生(しもかもお)駅がある。国道211号が遠賀川沿いに縦走し、大隈町(おおくままち)地区で322号と交差する。
遠賀川の上流域は早くから開け、馬見の鎌田原(かまだばる)弥生墳墓群や漆生(うるしお)の沖出(おきで)古墳(4世紀末)は県指定史跡。『日本書紀』にみえる鎌屯倉(かまのみやけ)は市域に所在したとみられる。7世紀に碓井封(うすいのふう)が観世音(かんぜおん)寺(太宰府市)に施入されたのを皮切りに、市域には筥崎(はこざき)宮領益富(ますとみ)荘、宇佐弥勒(みろく)寺領漆生荘、岩崎(いわさき)荘、比叡山延暦寺領嘉麻荘などの荘園が成立。これら諸荘の年貢米搬送には遠賀川が利用された。中世、嘉麻郡の南境に位置する馬見・千手(せんず)などが、交通、戦略上の要地となり、南北朝期~戦国期には千手城に拠った千手氏、鷺山城(さぎやまじょう)の秋穂氏のほか、秋月氏、豊後の大友氏、中国地方の大内氏、毛利氏などが攻防を繰り返した。1579年(天正7)秋月氏が一帯を掌握、益富城を支城とした。古くは「おぐままち」といった益富城下の大隈町は秋月街道と日田街道が交差する要衝で、定期市(三斎市)が開かれ、宿場町としても発展する。しかし、1587年、豊臣秀吉の九州平定軍に攻略され、この時、秀吉が大隈町の町衆に与えたという陣羽織(国指定重要文化財)が残る。江戸時代は福岡藩領、秋月藩領などに所属。大隈宿は人馬の通行で賑(にぎ)わい、秋月街道に千手宿も設けられた。江戸後期には福岡藩は石炭仕組を実施し、嘉麻郡など4郡の石炭を遠賀川経由で福岡・博多市中に回漕させた。当地では、下臼井(しもうすい)村の舟場が石炭輸送の拠点として繁栄。明治中期頃から、上下の山田炭鉱、熊田(くまだ)炭鉱、平山(ひらやま)炭鉱、三井山野(みついやまの)炭鉱など、多くの炭鉱が稼動し、筑豊炭田南部の炭鉱町として発展、1895年(明治28)には筑豊鉄道(1897年に九州鉄道と合併)の飯塚~臼井間が開通、1903年には飯塚~上山田間で旅客営業を開始(のちの国鉄上山田線)。しかし、昭和30年代以降、石炭合理化政策により炭鉱は相次いで閉山となる。人口は激減し、炭鉱町としての歴史は閉じられた。
現在の基幹産業は農業で、水田耕作、果樹・野菜栽培、キクなどの施設園芸や酪農も盛ん。また炭鉱閉山以降、縫製、印刷、食品など軽工業の工場を誘致、自動車関連工場なども進出した。山野の若八幡神社(わかはちまんじんじゃ)で行われる「山野の楽(がく)」は、河童祭りともよばれ、県指定無形民俗文化財。例年4月と10月には、1988年(昭和63)に廃線となった上山田線を利用したイベント(トロッコフェスタ)も開かれる。古処山、馬見山一帯は筑後川県立自然公園の指定域。面積135.11平方キロメートル、人口3万5473(2020)。
[編集部]
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