平安末期,京都白河の地(現,京都市左京区岡崎)に建立された六つの御願寺(ごがんじ)。すべて〈勝〉の字がつくのでこの称がある。〈りくしょうじ〉ともいう。法勝(ほつしよう)寺,尊勝寺,最勝寺,円勝寺,成勝(じようしよう)寺,延勝寺の6寺。1075年(承保2)白河天皇の発願で法勝寺の造営が開始されて以後,1149年(久安5)延勝寺が落成するまで,白河親政・同院政・鳥羽院政期に,白河,堀河,鳥羽,崇徳(すとく),近衛の5天皇と鳥羽中宮待賢門院藤原璋子の6人の発願によって建立された。造寺興隆の院政時代を象徴する大事業で,造営には受領(ずりよう)層が多大な役割を果たした。南北朝内乱,応仁・文明の乱などで焼失,荒廃し,いずれも廃寺となった。1959年以降発掘調査が実施されている。
六勝寺中最大で方4町,最も東に位置する(現,京都市動物園あたり)。白河天皇御願。藤原摂関家の別業白河殿のあった地を藤原師実が白河天皇に献じ,そこに造営したもの。1075年着工,77年(承暦1)落慶供養。翌78年には天台三会の一つ大乗会が行われた。当初金堂,講堂,阿弥陀堂,五大堂,法華堂,鐘楼,経蔵,池などから成り,旧白河殿のそれを利用した釣殿もあった。造営は播磨守高階為家以下の受領層に負うところが大きく,また金堂の扉絵を描いたのは鳥羽僧正であったという。その後増築が続けられ,83年(永保3)には80m以上の高さの八角九重塔が完成,85年(応徳2)に,前年没した中宮藤原賢子追善の常行堂が建てられた。寺領も多く,代表的なものに大和大仏供(だいぶく)荘,丹波拝師(はやし)荘,紀伊阿氐河(あてがわ)荘,肥前藤津荘などがある。地震,火災,落雷などによりたびたび損亡,修復が繰り返されたが,南北朝時代の2度の大火で荒廃,応仁の乱で決定的な打撃を受け,元亀(1570-73)ころ廃絶した。
法勝寺の西(現,京都会館あたり)に位置し,方4町。堀河天皇御願。1100年(康和2)着工,02年落慶供養。六勝寺のうち院政(白河)開始後最初に建立された寺で,受領が競って造営を担当した。金堂・講堂・回廊・中門・鐘楼・経蔵を但馬守高階仲章,薬師堂・観音堂・五大堂を伊予守藤原国明,灌頂堂を越後守藤原敦兼,東塔・西塔・南大門を播磨守藤原基隆が建立,そして曼陀羅(まんだら)堂を建てたのは若狭守平正盛であった。ついで05年(長治2)備中守高階為家が阿弥陀堂を,近江守平時範が准提堂,法華堂を造進した。これら受領はいずれも院近臣もしくは堀河天皇近臣で,功によりそれぞれ各任国に重任(ちようにん)された。寺領には大和河北荘,近江香(こう)荘,美作英多(あいた)保,筑前長淵荘などがある。しばしば災害にあったが,鎌倉末・南北朝内乱の中で壊滅した。
法勝寺,尊勝寺の間に位置し,方1町。鳥羽天皇御願。1118年(元永1)着工,落慶供養。堂塔伽藍の詳細は不明であるが,最初に塔が建てられ,ついで金堂,薬師堂,五大堂,南大門などが建立された。供養にあたり法性寺(ほつしようじ)流の祖藤原忠通が額を書いている。寺領には近江饗庭(あえば)荘,同長岡荘,信濃小川荘,肥前河副(かわそえ)荘などがあった。火災,地震,暴風雨の被害を受け,鎌倉末期青蓮院門跡(もんぜき)の管領するところとなったが,応仁の乱で廃絶したという。
最勝寺の南に位置し(現,京都市美術館のあたり),方1町。待賢門院御願。1126-27年(大治1-2)にまず白河法皇の発願で東塔(三重),中塔(五重),西塔が建てられ,28年に堂宇の落慶供養が行われた。伽藍は塔のほか金堂,五大堂などから成り,その後も増築が加えられた。寺領には近江善積荘,駿河益頭荘,遠江質侶(しどろ)荘,筑後鷹尾別符(たかおべつぷ)などがある。鎌倉時代に地震,火災の被害を受けたが再建され,応仁の乱で廃寺になったという。
円勝寺の西に位置し(現,京都市勧業館のあたり),方1町もしくは東西2町。崇徳天皇御願。1139年(保延5)落慶供養。金堂,経蔵,鐘楼などから成り,のち五大堂,観音堂,宝蔵などが増築された。塔の存在は不明。災害の多いことを考えてか当寺には修理所も設けられた。保元の乱(1156)で敗れ,のち讃岐の配所で没した崇徳院の御願寺であることから,平安末・鎌倉期にはその霊を慰める御八講がしばしば修された。86年(文治2)には源頼朝が,諸国に費用を宛課して急ぎ成勝寺の修復を遂げるよう後白河院に申し入れている。寺領には摂津難波荘,但馬朝倉荘,筑前粥田(かいた)荘などがある。応仁の乱で廃絶したという。
成勝寺の西に位置し,東西2町。近衛天皇御願。1146年(久安2)着工,49年落慶供養。金堂,回廊,塔,諸門などが造営され,63年(長寛1)には平忠盛の労で近衛殿の寝殿を移して九体阿弥陀堂が造立された。寺領には相模大井荘,美濃中北荘,近江中津荘,筑前穂波荘などがある。平安末・鎌倉期にたびたび火災にあう。応仁の乱で廃絶したという。
執筆者:飯田 悠紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
平安時代末期に京都市東山区岡崎あたりに朝廷の御願寺(ごがんじ)として建てられた六か寺の総称で、法勝寺(ほっしょうじ)、尊勝(そんしょう)寺、最勝(さいしょう)寺、円勝(えんしょう)寺、成勝(じょうしょう)寺、延勝(えんしょう)寺をいう。仁和(にんな)寺のもとに属し、各寺に別当または執事を置き、いずれも寺域は広大で壮麗を極めたが、承久(じょうきゅう)、応仁(おうにん)などの兵乱によって破壊され、やがて廃絶した。(1)法勝寺 1075年(承保2)白河(しらかわ)天皇の御願で建立、1077年(承暦1)供養会(くようえ)が行われた。金堂、講堂、阿弥陀(あみだ)堂、九重塔などがあって堂舎の規模はもっとも壮大であったらしい。(2)尊勝寺 堀河(ほりかわ)天皇の御願にてなり、1102年(康和4)に供養会が行われた。(3)最勝寺 鳥羽(とば)天皇の御願寺として1118年(元永1)に供養会が行われた。(4)円勝寺 鳥羽天皇の皇后待賢門院(たいけんもんいん)の御願にて建立、1128年(大治3)供養会を行った。(5)成勝寺
崇徳(すとく)天皇の御願にて建ち、1139年(保延5)供養会を行った。(6)延勝寺 近衛(このえ)天皇の御願によって、1149年(久安5)に供養会が行われた。
白河天皇の皇子覚行は初め法勝寺の検校(けんぎょう)となり、1099年(康和1)法親王(ほっしんのう)となったのが、法親王の称の最初である。1219年(承久1)に最勝寺をはじめとする四寺が焼失したことがあり、以後六寺はいずれも衰えていった。
[瓜生津隆真]
平安後期に京都東山岡崎に建立されて,院政期に隆盛をきわめた六つの御願(ごがん)寺の総称。白河天皇御願の法勝(ほっしょう)寺,堀河天皇御願の尊勝寺,鳥羽天皇御願の最勝寺,鳥羽天皇の中宮待賢門院御願の円勝寺,崇徳天皇御願の成勝(じょうしょう)寺,近衛天皇御願の延勝寺をさす。1185年(文治元)以降,仁和(にんな)寺を総検校(けんぎょう)にいただき,各寺に別当や執事がおかれた。各寺とも密教と浄土教を主軸として,数量功徳主義的に現当2世の安楽を祈願するため,多くの堂舎・仏像を配した。法勝寺・尊勝寺は2町四方以上の寺域を誇ったが,他の4寺は小規模化した。多くは受領(ずりょう)の成功(じょうごう)によって造営された。
出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報
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…1959年以降発掘調査が実施されている。
[法勝寺]
六勝寺中最大で方4町,最も東に位置する(現,京都市動物園あたり)。白河天皇御願。…
※「六勝寺」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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