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四条隆資 しじょうたかすけ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

四条隆資
しじょうたかすけ

[生]正応5(1292).京都
[没]正平7=観応3(1352).5.13. 山城,男山八幡
南北朝時代の公卿。検非違使別当,大納言。隆実の子。日野資朝らと正中の変を起し (1324) ,建武新政では雑訴決断所などの構成員となる。両朝分裂後は南朝に仕え,足利義詮と戦い,敗死

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デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説

四条隆資 しじょう-たかすけ

1292-1352 鎌倉-南北朝時代の公卿(くぎょう)。
正応(しょうおう)5年生まれ。四条隆顕(たかあき)の孫。後醍醐(ごだいご)天皇の正中(しょうちゅう),元弘(げんこう)の2度の討幕計画にかかわり,建武(けんむ)政権の有力公卿となる。南北朝分裂後も後醍醐天皇にしたがって吉野におもむき,南朝で従一位,権(ごんの)大納言にのぼる。観応(かんのう)3=正平(しょうへい)7年5月11日,男山八幡で足利義詮(よしあきら)軍とたたかい,戦死。61歳。左大臣を追贈された。

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朝日日本歴史人物事典の解説

四条隆資

没年:文和1/正平7.5.11(1352.6.23)
生年:正応5(1292)
南北朝期の公卿。父は左中将隆実。後醍醐天皇の信任を得た南朝の公卿として知られる。正中の変(1324)に関与したが追及を逃れ,嘉暦2(1327)年参議。元徳2(1330)年権中納言。元弘の変(1331)では後醍醐天皇の笠置臨幸に供奉したが消息をたった。しかし正慶2/元弘3(1333)年の天皇帰京に際して再び姿をみせ雑訴決断所,恩賞方などに名を連ねた。南北朝分裂後は,天皇と共に吉野に赴く。文和1/正平7(1352)年の男山八幡での足利義詮軍との戦で戦死。のち南朝から左大臣を贈られた。『新葉和歌集』『李花集』などに和歌が収められた歌人としても知られる。

(小森正明)

出典 朝日日本歴史人物事典:(株)朝日新聞出版朝日日本歴史人物事典について 情報

世界大百科事典 第2版の解説

しじょうたかすけ【四条隆資】

1292‐1352(正応5‐正平7∥文和1)
南北朝時代の公卿。隆実の子。後醍醐天皇が企てた正中・元弘の2度の倒幕計画に深く関係し,1331年(元弘1)笠置陥落の後は僧となって身を隠した。33年還俗し,建武政権では雑訴決断所,恩賞方,武者所の構成員となる。建武政権崩壊後は南朝に属し後村上天皇を補佐したが,52年男山八幡における足利義詮との戦いで敗死した。【清田 善樹】

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大辞林 第三版の解説

しじょうたかすけ【四条隆資】

1292~1352) 南北朝時代の公卿。正中の変・元弘の変に参画。建武新政府では雑訴決断所・恩賞方などに属す。南朝方の重鎮。足利義詮と戦って戦死した。

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世界大百科事典内の四条隆資の言及

【恩賞方】より

…しかし,後醍醐天皇親裁による恩賞宛行(あておこない)と恩賞方の審議とは必ずしも連携せず,恩賞問題は混乱した。34年(建武1),全国を4地区に分け,吉田定房(東海・東山道),九条光経(北陸道),万里小路藤房(畿内・山陽・山陰道),四条隆資(南海・西海道)をそれぞれ頭人とする四番制を採用して機構を整備した。これら頭人は雑訴決断所の頭人あるいは寄人(よりうど)を兼任した。…

※「四条隆資」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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