日本歴史地名大系 「武蔵国分寺跡」の解説
武蔵国分寺跡
むさしこくぶんじあと
武蔵野台地南端の国分寺崖線を境とする標高八〇メートルの武蔵野段丘および標高六五メートルの立川段丘にまたがって立地する。遺跡の大部分は立川段丘上にあり、真言宗豊山派国分寺の境内と重なっている。南東二・八キロの地点の府中市域に武蔵国府推定地がある。江戸時代末期以降、江戸近郊の旧跡として、さらには出土品の郡郷名文字瓦などが注目を集め、明治・大正時代の実地踏査を経て大正一一年(一九二二)国の史跡に指定され、以後も数次にわたり追加指定された。昭和三一年(一九五六)以降の発掘調査により国分寺の実態がしだいに鮮明になってきており、平成八年度から尼寺跡の史跡整備を実施中である。
〔古代・中世〕
国分寺の正式名は金光明四天王護国之寺。尼寺(法華滅罪之寺)と対をなしている。その造営は天平一三年(七四一)二月一四日に布告された聖武天皇の建立勅(類聚三代格)により開始されるが、遅々として進まず、同一九年一一月七日勇幹にして諸事をなすことのできる郡司に当たらせることにし、三年を限り塔・金堂・僧坊を完成させた場合、子孫を絶えることなく郡領とすることを約している。武蔵国分寺跡から
国分寺には丈六の釈迦如来像が奉置され大般若経を書写し、七重塔には金光明最勝王経および法華経各一〇部が置かれ、さらに聖武天皇直筆の金字金光明最勝王経が安置された。僧は二〇人ほど置かれ(尼寺は一〇人)、鎮護国家を意図して五穀豊穣を祈願するなどし、最勝王経の読誦をはじめとするさまざまな仏事が執行された。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報