知恵蔵 「土井たか子」の解説
葛西奈津子 フリーランスライター/2014年
1928年11月30日、兵庫県神戸市出身。同志社大法学部を卒業後、同志社大学、関西学院大学などで講師を務めた。当時の社会党委員長・成田知巳の強い要請と、恩師・田畑忍同志社大学教授の推薦により、69年に旧衆院兵庫2区で社会党から出馬し、初当選。その後、連続12回36年間にわたって議席を守り、「護憲の象徴」として活躍。平明な物言いで多くの名言を残し、国民や対抗する自民党議員からも「おたかさん」と呼ばれ親しまれた。
86年、衆参同日選で社会党が大敗し、急きょ、第10代委員長に就任。党史上初の女性委員長で、日本憲政史上初の女性党首でもあった。就任時、「プレッシャーを感じないと言ったらうそになるが、こうなったらやるっきゃない」と語り、「やるっきゃない」は当時の流行語になった。
自民党との対決軸を明確にし、88年の消費税を巡る論戦では「駄目なものは駄目」と訴えた。消費税導入とリクルート事件が争点となった89年の参院選では女性候補を多数擁立し、「マドンナ旋風」、「おたかさんブーム」を起こして自民党を上回る46議席を獲得。与野党逆転を現実としたことを、愛誦(あいしょう)する与謝野晶子の詩句「山の動く日来(きた)る。」を引いて「山が動いた」と表現し、名文句として有名になった。
93年に社会党など8党による細川内閣発足と共に、女性初の衆院議長に就任。
しかし翌年、社会党・自民党・さきがけの3党による連立政権が樹立されると、首相を務めた村山富市・社会党委員長による「自衛隊は合憲」とする党政策転換などをきっかけに、社会党は衰退期を迎える。96年1月、社会党は社会民主党(社民党)に改称。社民党の立て直しをかけ、村山に代わって党首に就任した。96年9月、衆議院解散により衆院議長を退任。98年に社民党は連立政権から離脱し、「ゼロからの出発」「市民との絆」を掲げて再生を目指したが、党勢衰退に歯止めをかけることはできなかった。
2003年、秘書給与詐取問題で土井の元秘書と同党元衆院議員の辻元清美が逮捕され、同年11月の衆院選では大敗。その責任を取り、党首を辞任した。
05年の衆院選で自身も落選し、事実上政界を引退することとなった。以後、講演活動などで、護憲や男女平等を訴え続けたが、晩年は体調を崩し、後継者といわれる福島瑞穂らとも会うことがなかったとされる。14年9月20日、肺炎のため兵庫県内の病院で死去。享年85。著書に『土井たか子憲法講義―人間が人間らしく生きていくために』(88年、リヨン社)、『山の動く日―土井たか子政論集』(89年、すずさわ書店)他。
出典 (株)朝日新聞出版発行「知恵蔵」知恵蔵について 情報