日露戦争後,国民に勤倹節約と国体尊重を徹底する目的で1908年10月13日に発布された詔書。渙発の年が戊申(つちのえさる)に当たっていたのでこの名がある。第2次桂太郎内閣の内務大臣平田東助の要請によるものといわれ,教育勅語とともに明治期渙発された国民教化の二大詔勅である。そこでは,戦勝の余栄にひたり華美に流れる風潮が戒められ,国家の政策に従い国民が共同一致,勤倹力行して国富の増強に邁進(まいしん)すべきことが強調された。それは,日露戦争の結果仲間入りを果たした強国のひとつとして,日本の内実の整備を急務とする政府・国家官僚が,強力な町村の造出とその基礎たる忠良な国民の育成をめざした結果であった。また他方,日本資本主義の急速な発展に伴い労働問題,小作問題が顕在化し,無政府主義,社会主義も流布しはじめ,加えて日比谷焼打事件をはじめとする講和反対の都市民衆暴動が各地で相次いでいた。このような不穏な社会情勢に対し,政府はすでに1906年風紀振粛に関する牧野伸顕文相の訓令を発していたが,さらにこの詔書により天皇制国家観の普及徹底をはかることで,民心の動揺を防ぎ国民統合を強化しようとしたのである。そのため地方改良運動が推し進められるなかで,あらゆる場所・機会を通じて,この詔書の奉戴・奉読が督励され,趣旨の浸透がはかられた。また,毎年10月13日を渙発記念日と定め,以後毎年この日に奉戴の式典を行わせることにした。この国民教化方式は,1923年関東大震災直後の〈国民精神作興詔書〉に引き継がれ,のちの国体明徴問題へと結びついていくこととなる。
→地方改良運動
執筆者:平賀 明彦
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1908年(明治41)10月13日に渙発(かんぱつ)された詔書。同年が戊申(つちのえさる)の年のため戊申詔書とよばれる。日露戦争の結果、日本は帝国主義国として列強と並ぶ国際的地位を得た。しかし、国内では、地方社会の荒廃、疲弊が表面化し、また社会主義、個人主義などによるいわゆる「思想悪化」が問題化した。この詔書は、こうした状態に対処しようとしたもので、皇室を中心として「上下」が一体となり、「忠実業ニ服シ勤倹産ヲ治メ」ることによって国運を発展させ、列強に伍(ご)していくことを国民に求めたものであった。日露戦争後、内務省などによって行われた地方改良運動のなかで、戦後の国民のとるべき道を示すものとして重視され、渙発後、各地の役場、小学校などで捧読(ほうどく)会が開かれたほか、学校教育でも教育勅語と並ぶものとされ、国民に大きな影響を与えた。
[岡田洋司]
『宮地正人著『日露戦後政治史の研究』(1973・東京大学出版会)』
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第2次桂内閣の1908年(明治41,干支は戊申)10月13日に出された詔書。日露戦争後の国民精神教化のため,平田東助内相の提言による。列強との友好を説いて国民の対米感情が排日問題で悪化するのをなだめ,日露戦争勝利で西欧に追いついたという気分には勤倹貯蓄・産業奨励を求めて引き締めた。第2次桂内閣は翌日の地方官会議でこの精神を徹底することを求め,地方改良運動が進められた。この詔書は23年(大正12)の国民精神作興に関する詔書や35年(昭和10)の国体明徴声明などの先例となり,学校教育でも教育勅語と並んで重視された。48年6月19日に国会で教育勅語とともに失効が確認された。
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