坪山村(読み)つぼやまむら

日本歴史地名大系 「坪山村」の解説

坪山村
つぼやまむら

[現在地名]押水町坪山

冬野ふゆの村の東にあり、南の標高約五〇メートルの台地を坪山という。北を前田まえだ川が西流、西方西の谷にしのたに堤がある。もとは「ツボノ井村」とよんだといわれ(能登志徴)、「三州志」に「坪山。又作壺井山・坪井山。末森より南方一里強、山上に長さ三十間許、幅七、八間の地あり」とみえ、坪山山上に坪山城があった。永禄一一年(一五六八)五月六日の畠山義綱書状(「自養録」裏文書)によると、能登を出奔していた義綱が能登入国作戦を敢行するなか家臣の三宅彦次郎が前年に築かれた坪山の砦を奪還している。


坪山村
つぼやまむら

[現在地名]川西町坪山

千手せんじゆの北西山際に位置する。霜条しもじよう村・高原田たかはらだ村の西。「白川風土記」には、文禄―慶長(一五九二―一六一五)頃の開発と伝える。正保国絵図に高一六五石余とみえる。天和三年郷帳では高一八〇石四斗余。元禄五年(一六九二)の村明細帳(中魚沼郡誌)では家数一九・人数一三二。同七年の妻有組村名書上帳(福原氏蔵)では枝村平美ひらみ村がみえる。「白川風土記」によると、灌漑のため沢口さわぐち堰が北西方一町ばかりに、大門だいもん堰は北東方三〇間ばかりに、曾根そね堰は東方村端にあり、ともに坪山村内地獄じごく沢の水を利用したもので、下流の村をも潤していた。


坪山村
つぼやまむら

[現在地名]牧村坪山

現牧村最北部にあり北東は法定寺ほうじようじ(現浦川原村)、西は桑曾根くわぞね村・所山田しよやまだ(現中頸城郡三和村)、南は川井沢かわいざわ村。北坪山と南坪山の集落がある。文禄(一五九二―九六)頃の頸城郡絵図では「御料所宇津郷扱坪山村 下」とあり、本納一〇石五斗五升・縄高二六石二斗三升八合、家三軒・一五人。正保国絵図に村名があり、延宝七年(一六七九)の越州四郡高帳では四六石八斗余。天和三年郷帳では高五一石八斗余、うち山高二石二斗九合・漆高二石三斗七升・青苧高三斗三升、反別田一町二反余・畑屋敷八町九反余・山林七町四反余・青苧畑三畝二〇歩で漆木二三七本。


坪山村
つぼやまむら

[現在地名]野沢温泉村大字坪山

野沢温泉のざわおんせん村の西部千曲川に近く、赤滝あかたき川の流域にある。坪山の地名は、石橋いしばし細越ほそごえとともに正慶元年(一三三二)の鎌倉幕府下知状(市河文書)に現れている。

この村は生産力が低く、慶長七年(一六〇二)の森忠政検地の川中島四郡検地打立之帳には、野沢村二五五石八斗六合のうちに、正保四年(一六四七)の信濃国絵図高辻でも野沢村二九一石余のうちに包含されていた。


坪山村
つぼやまむら

[現在地名]名立町坪山

名立川下流左岸にあり、北は名立大町なだちおおまち村、南はあかまた村。正保国絵図に高一六石余とある。天和三年郷帳には高三五石七斗余と記される。とりくび岬山上の日の入ひのいり城には承久の乱で天皇に味方した城基知がおり、この乱で山田重継は、天皇方に味方したために殺され、一四歳のその子兼継は越後へ流された。


坪山村
つぼやまむら

[現在地名]新井市坪山

山間にあり、坪山・上坪山の二集落からなり、東は大濁おおにごり村、南西馬場ばば村に接する。正保国絵図に高二七石余と記される。天和三年郷帳では高二八石余、うち山高一石七斗余・青苧高四石八斗余とある。宝暦一三年(一七六三)皆済目録(国立史料館蔵)によれば、本途・六尺給・口米・御伝馬宿として米四石三斗余、大豆定納一斗六升八合、荏胡麻代・小役・口永・御蔵米入用として永二六六文余を納めている。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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