翻訳|siege
城を攻めること,攻城術をいう。
所領支配の拠点としての城の性格が強まり,その規模も拡大した戦国期から近世初頭までを中心に述べる。包囲,接近,突入と占領の三つの段階からなる。第1の段階は,城を政治的・軍事的に孤立させ,城内と外部の支援勢力との連絡を絶つことに目的がある。籠城する側は,城の周辺の土地から兵糧など必要な物資を城に取り込み長期戦に備えるとともに,攻め方にそれらの物資を利用されることを防ぐ。また周辺の住民も,攻め方に徴用されることを防ぐために城に入らせたり,そうでない場合は城外に残った住民が攻め方に協力しないよう人質を取ることもあった。攻め方は,長期包囲のために兵糧,弾薬などの補給体制を確立するとともに,城からの矢弾の届かない場所に陣小屋を作り,城からの逆襲やその支援勢力による後巻(うしろまき)(逆包囲)に備えて,陣小屋の周囲に柵を結び巡らした。柵の外側に濠を掘ることもあり,さらに城を見下ろす地形を選び付城(つけじろ)を築くこともあった。第2段階は城に接近する行動で,これを〈仕寄(しよ)る〉といい,そのための構築物を〈仕寄(しより)〉,〈仕寄〉を城の近くに接近させることを〈仕寄を付ける〉といった。〈仕寄〉には竹束(たけたば),大楯,井(勢)楼(せいろう)などがあり,いずれも城方の矢弾から攻め方を守るものである。竹束は,竹を束ねたものをいくつか並べて牛(材木を家の棟木のように組んだものをいう)などにつけて楯としたもの,大楯は,板の上に鉄板や鉄鋲を打ちつけたものであった。井楼は盆踊のやぐらのようなものに竹束や大楯をつけ,そこから矢弾で城内の抵抗を制圧するものであった。井楼のほかに舟の帆柱に樽を下げたものも作られたが,これらは城から至近距離に立てられるので,あらかじめ木組みをしておき,一気にあげたものと思われる。これらの構築に必要な竹,材木,鉄,炭などの資材と,大工,鍛冶などの職人を集めることも,城攻めには不可欠な作業であった。また地下から坑道によって城内に入る方法もとられたが,この坑道を掘るためには鉱山から多数の金掘が動員された。第3段階は石垣と塀をよじ登っての総攻撃であるが,この場面では城からの投石も威力を発揮した。しかし,この段階になると,城方は長期の包囲によって消耗しており,城内突入ののち短時間で陥落となった。遭遇戦である合戦に対して,城攻めの特徴としては,第1,第2段階の包囲して接近し,敵に消耗を強いながら戦力のつきるのを待つ点と,そのために多数の職人と人夫が動員された点にあった。
執筆者:高木 昭作
前1500年以前の殷の鄭州城のように,早くから土を固めた巨大な城壁が出現していたが,それが黄河中流の平野部に普遍的となるのは前4世紀の戦国時代である。築城や防備の技術も分化進歩し,魯班の名で知られる公輸班(こうしゆはん)が攻城具の雲梯を発明して宋の国を攻めたと伝えられるように,墨子集団はそれに深くかかわったとされている。だが,すでにこのころ《孫子》が城を武力で直接攻撃するのは下策というように,いったん城郭に逃げこめば攻撃側がむしろ不利になるのが通例であった。それでもさまざまな攻城法が案出された。城壁の高さは5~8mであったから,まず距闉(きよいん)と呼ぶ,城壁より高い土山を作り,城内を俯瞰(ふかん)し,攻撃の指揮をすると同時に,火矢や弩(ど)石をここから発射もする。一方,地道と呼ぶトンネルを掘って城内に通じさせたり,付近の河川をひいて水攻めにするのも常套手段である。攻城法がかなり進んだ宋代,《武経総要》にのせる地道は次のようにして掘られた。まず,城壁上から発射される矢石から守るため湿らせた牛皮をめぐらした頭車(とうしや)という箱車を作る。そして工作員,工具をのせて城壁に近づける。掘られる地道は,高さ7尺5寸,幅8尺のほぼ正方形で,口径いっぱいに頑丈な木組みを密度高くたてつつ奥へ掘り進む。城壁の基部の下に地道を掘りおわれば,支柱に油と火をそそぎ焼き払い,それとともに城壁が崩壊する手はずである。宋代の慶暦7年(1047),河北省恩州で反乱を起こし籠城した王則に対する包囲戦では,距闉と地道の両方の城攻めが使われ,66日で城がおちた。むろん城を守る方でも地道作戦にさまざまの対策がたてられ,城壁下に井戸様の穴を密に掘り,甕(かめ)をかぶって聴音探知する人間を配置し,敵の地道の見当がつくと,城壁上から垂直に穴を掘って,油火を投下した。
城攻めは古来,準備と攻撃に3ヵ月ずつ要するといわれるが,1268年(至元5)秋に始まるフビライ麾下の元軍が南宋の呂文煥(りょぶんかん)が守る襄陽(じようよう)を攻撃した城攻めは,73年1月まで4年半を要し,回回砲(かいかいほう)と呼ぶ新型の大投石機まで登場した最後の決戦でさえ14昼夜かかった。また南京城の攻防は548年(太清2)の侯景の乱が有名であるが,清の同治1年(1862)夏から始まった曾国筌(そうこくせん)が指揮する湘(しよう)軍の太平天国天京攻撃も悽惨(せいさん)を極めた。このときはすでに爆破火薬が使用されたにもかかわらず城壁はゆるがず,城内を砲撃できる周囲の高地を占領しつつ,丸2年の包囲の末ようやく城がおちた。城攻めの武器は宋以後の兵書類に絵入りで説明されているが,攻撃軍の被害を僅少にするためには城内の兵糧がつきるまで包囲するのが最もよく,多くこの方法がとられた。この場合の城内の惨憺(さんたん)たる状況は史書に数多くみえる。
執筆者:梅原 郁
石造のヨーロッパ中世の城は,日本の戦国時代,江戸初期の優美な城に比べて武骨,重厚,堅牢であり,本丸(キープ,ドンジョン)はあたかも男性を象徴するかのごとくである。しかし城の機能は,受身に敵の攻撃から身を守ることにあり,そこから,城は女性形代名詞(彼女)で表現される。城攻めそのものは,攻める方にも多大の損害を与えたから,第一になされたのは村荒しであった。畑を荒らし家畜を奪う敵軍兵士に対し,村人たちは家畜とともに森や城内に避難した。
積極的な城攻めは,城の包囲から始まった。溝,塹壕(ざんごう)を掘り,柵を立て,塔を築いて城の周囲に巡らせ,兵糧攻めにするとともに,城内からの脱出や救援軍の到来を防いだ。城を巡る濠を埋める作業は,長い廊下状のものの上に牛の生皮を張り,火矢などの攻撃を避けながら行われた。
城壁をこわすには,塔と塔との間の城壁の下に坑道を掘り,丸太で坑道を支えたうえでこれに火を放ち,城壁を陥没させた。坑道は城内に侵入するためにも掘られ,この兵士たちを追い出すため,攻められる側も城内から対抗濠を掘った。敵味方が城壁の下に坑道を掘りすぎたため,城壁が崩れてしまう場合もあった。攻め込む敵兵がどのあたりに坑道を掘っているかを知るため,城内では各所に水を張った器を置き,水の動きでその場所を察知した。城壁の破壊には投石器や破城槌も用いられた。大砲状の投石器は,100kg以上の大石を200mも飛ばす力があり,城壁上部ののぞき穴をこわし,城壁をゆさぶり,割れ穴を広げるのに効果があった。これで小石や火矢を打ち込んだり,動物の腐った死骸を投げ込んで疾病をはやらせる試みもなされた。破城槌は遊動円木のような形をしており,上からはやはり火を防ぐため牛の生皮を張り,中に10人から100人ほどの人が入って太丸太を突き当てる反復運動を繰り返し,城門を破壊したり,城壁にひびを入れたりした。城内からは羊毛入りの袋を城壁と槌との間にあてがったり,牛の皮に石や火のついた薪の束を投げつけて,穴をあけ,燃やそうと努めた。
高さ50mもある木製の塔を作り,内部に100人以上もの兵士を入れ,同じく牛の生皮を張って城壁に近接し,兵士が城壁内に乗り込む,大がかりな移動木塔も作られた。この移動木塔から,跳ね上げ橋が城壁上に下ろされ,最後の大々的な攻撃が開始される。ここから兵士の一隊はどっと城内に入り,他の一隊が城壁の割れ目から侵入した。ある者は長さ20m,幅4mもの大はしごを城壁に立てかけ,ある者は綱つき鉤を城壁上に引っかけて,よじ登る。そうはさせじと,城内からは大はしごを向こう側に倒す者があり,綱を切る者,熱い松やにや生石灰を投げて相手の兵士を焼きつくそうとする者ありで,凄絶なシーンが展開される。城内に討ち入ってからも,本丸,城門,大塔など独立した建築物にはなお敵兵が立てこもり,城全体を陥落させるのは容易なことではなかった。1203年末から04年3月6日にかけフランス国王フィリップ2世が陥落させた,イギリス領ノルマンディーのガイヤール城に対する兵糧攻めと激しい直接攻撃は,史上有名である。15世紀に入り,大砲を並べ弾を城門に集中させて城を破るようになると城はその軍事的価値を失い,以上のような城攻めもすたれていった。
→城
執筆者:木村 尚三郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
城を直接攻める戦法を城攻めといい、原始から近世に至るまで多くの事例をみいだすことができる。古くは高地性集落や環濠(かんごう)集落とよばれる弥生(やよい)時代の城郭遺跡で、城攻め合戦の痕跡(こんせき)が相次いでみつかっている。古代大和(やまと)政権下では、東北地方の反乱拠点に城が利用され、出羽俘囚(でわふしゅう)の乱(878)の秋田城、前(ぜん)九年の役(1051~62)の鳥海柵(とりうみのき)・厨川柵(くりやがわのき)、後(ご)三年の役(1083~87)の金沢柵(かねさわのき)などが城攻めの舞台となった。中世に入り、鎌倉時代末から南北朝争乱期にかけては、城に立てこもる籠城(ろうじょう)と、これを攻撃する城攻めが合戦の主流となった。
武門武士間の抗争に代表される鎌倉時代の合戦様式は、武術を競う武士階級間の野戦であったが、やがて荘園(しょうえん)公領制の矛盾から新たに発生した脱農民層が悪党組織をつくり、山城(やまじろ)に立てこもるようになった。そのなかから足軽とよばれた傭兵(ようへい)が出現し、一騎打ち勝負の武士戦法にかわる集団戦・ゲリラ戦が広がった。こうして、山城構築→刈田狼藉(かりたろうぜき)→籠城→遵行使(じゅんこうし)との対決という経過がみられ、悪党行為と山城が表裏一体の関係になった。南北朝争乱期には山城が南朝軍に利用され、足軽が組織されてゲリラ戦が一般化するにしたがい、武術に戦術が加わり、これが城の攻防戦に多くのくふうを生む転機となった。史上名高い笠置山(かさぎやま)城、赤坂城、千早城、船上山(せんじょうさん)城、霊山(りょうぜん)城の合戦は、峻険(しゅんけん)な山岳突端部を山城として南朝側が立てこもり、足利(あしかが)勢と戦ったものであった。
室町時代になると、守護大名などにより、居館を伴う壮大な山城が築かれ、地域支配の拠点となった。関東の平野部では、舌状丘陵や台地上に城郭が営まれた。この時代の代表的な城攻めは、小山(おやま)氏の乱(1380)の小山城、永享(えいきょう)の乱(1438)に引き続いた結城(ゆうき)城合戦(1440~41)、嘉吉(かきつ)の乱(1441)で播磨城山(はりまきのやま)城に籠城した赤松満祐(あかまつみつすけ)とこれを攻めた足利幕府軍との戦いなどがある。応仁(おうにん)の乱(1467~77)では、京都市中に多くの臨戦築城である陣城(じんじろ)が築かれ、陣城争奪戦が中心となった。とくに井楼(せいろう)と石火矢(いしびや)が陣城に盛んに設置されたことが当時の『碧山(へきざん)日録』『山科家礼記(やましなけらいき)』に記されている。井楼とは組み上げ式の櫓(やぐら)で、10余丈(30メートル以上)に及ぶものもつくられた。石火矢とは、火薬で大石を発射させる大砲の原始的なものである。
同じころ、関東では、関東管領(かんれい)家執事職をめぐって大乱が起こった。長尾景春(かげはる)の乱とよばれる戦いは30回以上を数え、反乱軍が籠城、太田道灌(どうかん)が城攻めを行った。道灌は足軽戦法を用い、雑兵を組織化、陣城をもって敵方城郭を攻めて、21か城をすべて攻略したと伝えられる。自らの居城江戸城は、道灌がかりとよばれる城取り(築城とそのプラン)をもって築き、強固な城郭とした。
1491年(延徳3)10月伊勢宗瑞(いせそうずい)(北条早雲(そううん))は伊豆の乱を起こして足利茶々丸を韮山(にらやま)城に不意打ちして伊豆一国を手中に収め、1495年(明応4)相模(さがみ)の名族大森氏の居城小田原(おだわら)城を夜襲、関東進出の基盤を築いた。この城攻めは奇襲とよばれる戦法で、戦国時代の幕開きとなり、戦国大名の出現となった。戦国大名は、被官となった在地武士や農民に軍役、夫役(ぶやく)を課して軍団を組織し、種々の城攻め戦略が兵法(主として兵法七書)を基本に考案、実施された。
城攻めは大別して、前述の奇襲と正攻法とがある。正攻法は宣戦布告にかわる陣触(じんぶれ)を大々的に行ってから城攻めするもので、織田信長や豊臣(とよとみ)秀吉が攻略した小谷(おだに)城、石山本願寺、朝倉氏の一乗谷城、鳥取城、小田原城の各戦で行われた。このほか、城が小規模、弱小の場合や、多くの損害を覚悟で早急に陥落させたい場合などには強襲(一時(いっとき)攻め)が行われた。
また、城攻めの手段として、〔1〕平攻め、〔2〕火攻め、〔3〕水攻め、〔4〕枯渇(こかつ)攻め、〔5〕兵糧(ひょうろう)攻め、〔6〕金掘(かねほり)攻め、などがあった。〔1〕は仕寄(しより)攻めともいわれ、敵城の正面である大手方面から攻めるもので、楯(たて)・竹束などを並べ、高櫓(たかやぐら)を建て、我屈洞(がくつどう)で近寄り、塹壕(ざんごう)を掘り、埋め草で堀を埋め、梯子(はしご)を使って攻め入る方法がとられた。城側は裏手から兵を出し、これを搦(から)め捕る方法(搦手)が用いられた。〔2〕は火矢をもって城下や敵城を火攻めにし炎上させる戦法で、奇襲や強襲の際にしばしば用いられた。〔3〕は灌流攻めともいい、城の周囲に堤を築いて堰(せき)から河川を引き入れ、城を孤立化させ、兵糧や援軍の補給を遮断する方法で、秀吉の備中(びっちゅう)高松城、紀伊太田城、武蔵忍(むさしおし)城攻めが有名。〔4〕は城の井戸や溜井(ためい)(水の手)を破壊して城兵を干ぼしにする方法で、武田信玄(しんげん)による箕輪(みのわ)城、二俣(ふたまた)城攻めが知られる。〔5〕は大軍をもって城を包囲、兵糧補給を断ち、自滅を待つ方法で、長囲(ちょうい)(遠巻き)ともいわれ、秀吉による三木城、鳥取城、小田原城や、島原の乱の原城などが知られる。〔6〕は坑夫を使い城外からトンネルを掘って城内に兵を入れる方法で、駿河(するが)深沢城、常陸(ひたち)小田城、小田原征伐での水之尾口の合戦などが史料に伝えられる。
[西ヶ谷恭弘]
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