基肄城跡(読み)きいじようあと

日本歴史地名大系 「基肄城跡」の解説

基肄城跡
きいじようあと

基山きざんに築かれた朝鮮式山城で、土塁・石塁・門跡・水門・礎石などが残る。

築城起因は、唐・新羅連合軍に滅ぼされた百済の再建を支援するため朝鮮へ出兵した日本軍が、西暦六六三年白村江はくすきのえで大敗し、百済遺民とともに帰国、連合軍の来寇に備えたものである。翌年、対馬壱岐・筑紫国に防人と烽を置き、大宰府前面に水城みずき(現福岡県筑紫郡太宰府町)を築き、翌天智天皇四年百済からの亡命貴族憶礼福留・四比福夫に命じて、大野おおの(現福岡県筑紫郡太宰府町)と基肄城を築かせた。「日本書紀」天智天皇四年八月に「達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫国に遣して大野及び二城を築かしむ」とある。敵の侵略を受けた時、平地の都を山城に移す計画であったといわれる。また、大野城・水城・基肄城を結ぶ線は、大宰府防御の羅城をなしていた。

「続日本紀」文武天皇二年五月にも「大宰府に令して大野・基肄・鞠智の三城を繕治せしむ」とある。「肥前風土記」に「城壱所」とあるのは基肄城のこととされる。「万葉集」巻八にある神亀五年(七二八)式部大輔石上堅魚と大宰帥大伴旅人らが望遊した「記夷」の記事以後、基肄城の記録は出てこないが、「日本紀略」弘仁四年(八一三)の条に「基肄団校尉真弓」とあり、この頃、基肄軍団とともに基肄城も存在したと推定される。

基肄城跡
きいじようあと

[現在地名]筑紫野市萩原・山口・原田、佐賀県三養基郡基山町

天智天皇四年(六六五)大野おおの城とともに築城された朝鮮式山城。佐賀県との県境にあり、大部分基山きやま町に、北辺土塁の一部が筑紫野市に属する。国指定特別史跡。

斉明天皇六年(六六〇)百済が唐・新羅連合軍に滅ぼされると、大和政権は同七年以降百済を救援する軍隊を朝鮮半島へ送った。しかし天智天皇二年八月白村江の戦で救援軍は大敗した。これにより大和政権は連合軍の朝鮮半島からの来襲に備えるため、同四年八月百済からの亡命貴族達率憶礼福留・達率四比福夫を筑紫に派遣し、「大野及椽二城」を築かせた(日本書紀)

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

国指定史跡ガイド 「基肄城跡」の解説

きいじょうあと【基肄城跡】


佐賀県三養基(みやき)郡基山(きやま)町小倉から福岡県筑紫野市山口にかけて存在する城跡。椽城跡とも書く。665年(天智天皇4)に大宰府防衛のため、基山(きざん)に築かれた朝鮮式古代山城の跡。土塁、城門、水門、建物の礎石などの遺構が遺存しており、7世紀後半の国際関係を知るうえで重要な遺跡であることなどから、1937年(昭和12)に国の史跡に指定され、1954年(昭和29)には特別史跡として追加指定を受けた。築造には百済(くだら)の亡命軍官である憶礼福留(おくらいふくる)と四比福夫(しひふくふ)が当たったとされている。城は四方を約4300mにわたって土塁が取り巻き、北方に1ヵ所、東方に2ヵ所、南方に1ヵ所の城門を開き、土塁の内側には約40ヵ所に建物の礎石群が点在。建物付近では、単弁蓮華文軒丸瓦(のきまるがわら)、重弧文軒平瓦ほか多くの瓦が出土。唐、新羅(しらぎ)による侵攻に備え、博多湾からの正面に水城(みずき)、大宰府の北に大野城、南には基肄城を築き、山口県に築かれた長門城とともに大宰府を守る羅城形式の大防衛線が整えられた。JR鹿児島本線ほか基山駅から車で約15分。

出典 講談社国指定史跡ガイドについて 情報

今日のキーワード

焦土作戦

敵対的買収に対する防衛策のひとつ。買収対象となった企業が、重要な資産や事業部門を手放し、買収者にとっての成果を事前に減じ、魅力を失わせる方法である。侵入してきた外敵に武器や食料を与えないように、事前に...

焦土作戦の用語解説を読む

コトバンク for iPhone

コトバンク for Android