日本歴史地名大系 「基山」の解説
基山
きざん
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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佐賀県東端、三養基郡(みやきぐん)にある町。1939年(昭和14)町制施行。町名は、『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』に「基肄之山(きのやま)」とある基山の山名に由来。町名と区別し、山名は「きざん」とよぶ。北・西部に脊振(せふり)山地東端の花崗(かこう)岩山地が広がる。筑後(ちくご)川に注ぐ秋光(あきみつ)川などが流れ、南・東部に平野が開ける。鳥栖筑紫野(とすちくしの)有料道路、国道3号が走る。JR鹿児島本線が通じ甘木鉄道(あまぎてつどう)を分岐する。古来交通の要衝で、JR基山(きやま)駅の近くに古代駅の基肄駅があったと推定され、近世には長崎街道も通じた。対馬(つしま)藩領の飛び地で、その後期以来の肥前売薬業地。いまも家庭配置売薬業者がみられる。長野の企業団地をはじめ、工業・住宅団地の開発が目だち、福岡市方面などへ通勤も多い。基山(きざん)の基肄城跡(きいじょうあと)は、7世紀に築かれた大宰府(だざいふ)防備の朝鮮式山城(やまじろ)で特別史跡。基山付近一帯は脊振北山(せふりほくざん)県立自然公園(佐賀県)。国指定重要文化財の仏像のある大興善寺(だいこうぜんじ)はツツジの名所。荒穂神社(あらほじんじゃ)神幸祭の獅子舞(ししまい)は郷土芸能として知られる。面積22.15平方キロメートル、人口1万7250(2020)。
[川崎 茂]
『『基山町史』(1971・基山町)』
佐賀県東端の三養基(みやき)郡基山町(きやまちょう)と、福岡県筑紫野市(ちくしのし)にまたがる花崗(かこう)岩の山。標高404.5メートル。脊振山地(せふりさんち)東端にある。『肥前国風土記(ひぜんのくにふどき)』には「基肄之山(きのやま)」とあり、明治中期ごろまでは坊住山(ぼうじゅやま)などともよばれていた。村名を基山としてから「きざん」の呼び名が一般化する。北、西、東峰の3峰などからなり、西峰(404.5メートル)を一般に基山とよぶ。この3峰を結ぶ稜線(りょうせん)内窪地(くぼち)一帯には、7世紀に大宰府(だざいふ)防衛のために朝鮮式山城(やまじろ)の基肄城(きいじょう)(椽城(きのき))が築かれ、その城跡は特別史跡。『万葉集』にも「記夷の城(きのき)」に登り望遊したときの歌が残る。一帯は脊振北山(ほくざん)県立自然公園(佐賀県)で、山頂から筑紫(つくし)平野を望む眺めは雄大、草スキーでも知られる。
[川崎 茂]
佐賀県最東端,三養基(みやき)郡の町。人口1万7837(2010)。東・西・北の三方は福岡県,南は鳥栖(とす)市に接する。北西部は脊振山地の東端に属し,南東部は筑後川中流の平野に連なる。古くからの軍事・交通の要衝で,北部にある基山の山頂には,7世紀に大宰府の南の防備として築かれた朝鮮式山城の基肄(きい)城があり,特別史跡に指定されている。古代には基肄駅,基肄軍団が置かれ,江戸時代は対馬藩領で薬の製造と行商が盛んであった。米作を中心とし果樹栽培,肥育牛などを行う農業が主産業であったが,近年,南部の工業団地を中心に工業が盛んになり,製造品出荷額も県内有数の地位を占めるようになった。ツツジの名所として知られる大興善寺などの古刹(こさつ)が多い。JR鹿児島本線,国道3号線などが通り,九州横断自動車道の鳥栖インターチェンジに近く,最近は宅地開発が進んで人口が増加している。
執筆者:松橋 公治
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