堀川町(読み)ほりかわまち

日本歴史地名大系 「堀川町」の解説

堀川町
ほりかわまち

[現在地名]中津市中津 北堀川町きたほりかわまち南堀川町みなみほりかわまち

中津城より北東に四〇〇メートルほど下ると幅一〇メートル弱の堀が東西に約四〇〇メートル延びる。その両岸に発達した家並。北は角木つのぎ町、南は船場せんば水主かこ町・船頭せんどう町などに接する。下手の下正路しもしようじ浦・うら町とともに船持が多かった。享保四年(一七一九)には軒数九七・竈数一四〇。安永六年(一七七七)は空地一六・空家九軒。文化二年(一八〇五)は軒数一〇二(うち重松長門守一・宝泉寺一)・竈数七九、空地一八・空家五となっている(惣町大帳)。享保二年の中津領浦々船帳(中津市立図書館蔵)には船持七人、一二反帆で、一九〇石以上二六四石積以下の船七艘。享保五年は一四艘、寛政四年(一七九二)では一〇〇石以上二六四石積以下の船四艘と二五石積の船四艘、文化三年は船持九名、三五〇石積一艘、一二〇石積一艘、ほかは二〇石から六〇石積の小形船七艘となっている(惣町大帳)。享保五年町年寄菊屋伝左衛門は近年身上不如意となり、居宅を借銀の方に六年切に相渡し、自分は船場八兵衛の家を借り、上げ酒商売などをしたいという理由で町年寄役の退役を願出て許された。

堀川町
ほりかわまち

[現在地名]大分市都町みやこまち二―三丁目・千代町ちよまち四丁目

府内城の北西に掘られた堀川の南側に沿った東西に長い町で、南は南北に延びる町組府内町の茶屋ちやや町・町・今在家いまざいけ町。町の西端を北に折れると堀川口番所に至る。慶長府内絵図に町名がみえ、北側の町は二区画、南側の町は四区画。北頬は五八間と四九間、南頬は東から三区画が各々三〇間、西端の区画は一七間で、堀川の西側にも南北の町並がある。門内にあるが町組西三ヵ村の勢家せいけ庄屋の支配を受けた。慶長一三年(一六〇八)の堀川開削後に形成された町で、宝永七年(一七一〇)には堀川二町の家数五二・人数三〇〇(豊府指南)。御城下絵図(大分市蔵)に堀川に停泊する船から荷揚げする様子が描かれる。

町郷中酒造米高寄帳(府内藩記録)によれば酒造業者が四軒あり、酒造米高は延宝七年(一六七九)それぞれ七石五斗・一五石・一五石・一六石二斗余、元禄一〇年(一六九七)二七石六斗余・一石二斗と不造が二軒、正徳五年(一七一五)九石二斗余・六斗・五石・五石四斗余。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]中区堀川町・流川ながれかわ町・新天地しんてんち本通ほんどおり

ちぎや町の西、水道を隔てて山陽道沿いの横町で、北は平行して通るえびす町、西は平田屋ひらたや川を隔てて平田屋町に続くが、川に架かる平田屋橋は堀川町筋の延長にはなく、南に鉤の手に折れて付けられ、その付近の武家屋敷八丁堀はつちようぼりの南に続く縦筋も堀川町に属する。城下新町組に属した。天正一七年(一五八九)広島城下町普請にあたり、石・木材運搬のため平田屋川・西堂せいとう川が開削されたが、その時平田屋川近辺に初めて町家が建てられ、堀川新ほりかわしん町とよばれた(知新集)のに始まる。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]津市大門だいもん

入江いりえ町の南に接し、堀川内側の町人町。藤堂高虎の城下町形成に伴い、岩田いわた川より北上して堀川が掘られ、漁船・荷船の船入れとされた。伊藤又五郎日記要用抜書(津市史)に「元和四年戊午のとし堀川ほり候事」とあり、元和四年(一六一八)堀川町も成立する。「累世記事」(上野市立図書館蔵)に「堀川町、高虎君御代出来也」とあるのと符合する。しかし寛永元年(一六二四)の津町二二町のなかにみえず、同一二年の三一町のなかに「堀河」とある。

堀川町
ほりかわちよう

上京区上ノ下立売御前通西入二丁目

東西に通る上ノ下立売通(旧近衛大路)を挟む。東は天神てんじん(旧西靫負小路)、西は天神川(紙屋川)。平安京の条坊では、右京一条二坊一保七町の西及び南側から二保六町の北側の地で、官衙町の一つ「采女町」の跡地(「拾芥抄」西京図)。平安中期以降は、近衛大路西堀川小路南北の地。

寛永一四年(一六三七)洛中絵図に「堀川丁」とみえる。宝暦一二年(一七六二)刊「京町鑑」には、平安時代、紙屋川筋で宿紙すくしとよぶ禁裏御用の紙をすいたので、この辺りを「宿紙村」とも称したと記す。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]北区南森みなみもり町一丁目・西天満にしてんま三丁目

旅籠はたご町の西にある。天満堀てんまほり川を挟んで南北に延びる片側町で、東岸は南は天神筋てんじんすじ町、西岸は源蔵げんぞう町から北は堀川橋詰までをいう。明暦元年(一六五五)大坂三郷町絵図に町名はみえるが、西岸の南部には天神小橋西詰より源蔵町が一部入っており、貞享四年(一六八七)新撰増補大坂大絵図も同様である。大坂三郷天満組に属し、元禄一三年(一七〇〇)三郷水帳寄帳では屋敷数二七・役数五一役で、うち年寄分一役が無役。年寄は綿屋茂安。前掲町絵図には東の町筋に豊後臼杵藩ほかの蔵屋敷、西筋に大和小泉藩・備前岡山藩蔵屋敷がある。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]江東区佐賀さが二丁目

あぶら堀北岸に沿う町屋。元木場もときば二一ヵ町の一。片側町で、北は中之なかの堀を挟んで西永代にしえいたい町・富田とみた町、西は佐賀町、南は油堀を挟んで松賀まつが町、東は油堀と仙台せんだい堀を結ぶ枝川を挟んで東永代町・材木ざいもく町。文政町方書上によれば、元禄一三年(一七〇〇)町場となり、正徳三年(一七一三)町奉行支配となった。町内総間数は京間で東西間口・裏幅三七間、南北は裏行二四間、八八八坪。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]函館市堀川町

昭和六年(一九三一)九月に設定された町で、的場まとば町の西に位置する。それまで函館区大字亀田村かめだむらの字であった千代ヶ岱ちよがたいの一部に字柏野かしわのの一部を加えて町域とした(函館市字地番改正調書)。町名は願乗寺がんじようじ川を開いた堀川乗経に由来。昭和九年の函館大火後、次第に商店街が形成され、堀川新地・昭和新地とよばれる花柳界も形成された。

堀川町
ほりかわちよう

[現在地名]前橋市本町ほんまち一丁目・表町おもてちよう一丁目

町人町の南に置かれた武家居住区域の川窪かわくぼ砂堀すなぼりの一部を併せ、明治七年(一八七四)改称された。西は南曲輪みなみくるわ町・石川いしかわ町、南は前代田まえしろた村、東は田中たなか町、北側に町の東西通がある。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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