壬生通り(読み)ミブドオリ

デジタル大辞泉 「壬生通り」の意味・読み・例文・類語

みぶ‐どおり〔‐どほり〕【壬生通り】

壬生川通り

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百科事典マイペディア 「壬生通り」の意味・わかりやすい解説

壬生通り【みぶどおり】

日光道中小山(おやま)宿(現栃木県小山市)の北の喜沢(きざわ)村から分岐し,北上して今市宿(現同県日光市)の東端で再び日光道中に合するまでの約30kmの街道。日光道中壬生通り,日光西街道ともいう。道筋喜沢村から分岐後,飯塚宿,壬生宿を経て,楡木(にれぎ)宿で日光例幣使街道を合わせ,奈佐原(なさはら)宿,鹿沼宿,文挟(ふばさみ)宿,板橋宿を経て今市宿に至る。この道筋は中世から利用され,鎌倉街道の一つであったと推定される。1617年徳川家康の日光廟が造営されたとき,この通りを使って資材が運ばれた。その後宇都宮経由の日光道中が整備され本通りとなったが,壬生通りは距離も近いため,日光道中と同じ扱いをされた。1696年には日光道中と同時に定助郷(じょうすけごう)が定められた。今市を経て南奥羽ともつながり,商品の流通路としても重要であった。小倉(こぐら)村(現日光市)から今市宿の日光道中との合流点まで続く杉並木は,17世紀前半に松平正綱によって植えられたもので,現在も美しい景観を残す。
→関連項目宿村大概帳壬生[町]

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改訂新版 世界大百科事典 「壬生通り」の意味・わかりやすい解説

壬生通り (みぶどおり)

日光道中小山宿(現,栃木県小山市)の北の喜沢(きさわ)から分かれ,飯塚,壬生を経,楡木(にれぎ)で日光例幣使街道と合い,奈佐原,鹿沼,文挟(ふばさみ),板橋の7宿を通り,今市(現,栃木県日光市)で再び日光道中に合流する約30kmの街道。渡良瀬川支流の思川から黒川に沿って北上する道で,1617年(元和3)日光山に徳川家康廟(のちの東照宮)が造営されたとき,その資材が乙女河岸(現,小山市)で陸揚げされて送られた道で,江戸から日光に向かうのに当初から使われた。19年宇都宮城主となった本多正純が整備してからは日光道中が本通りとなったが,壬生通りは距離も近いため,日光道中壬生通りとか,日光西街道として,つねに日光道中と同じ扱いをされ,96年(元禄9)には同時に定助郷(じようすけごう)制が敷かれ,文挟宿南方の小倉(こぐら)村から北へは,本街道と同じく17世紀前半に松平正綱によって杉並木が植えられている。今市から北方,会津方面からの産物が壬生宿に開かれた河岸まで送られたり,さらに南方の街道近くには半田,三拝,島田などの河岸が思川に設けられるなど,商品の流通路としても重要であった。
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