海岸寺(読み)かいがんじ

日本歴史地名大系 「海岸寺」の解説

海岸寺
かいがんじ

[現在地名]富山市梅沢町三丁目

補陀山と号し、曹洞宗本尊釈迦如来。加賀大乗だいじよう(現石川県金沢市)瑩山紹瑾随侍し、次いで能登酒井永光さかいようこう(現同県羽咋市)明峰素哲に嗣法した月庵瑛が、康永元年(一三四二)に開創したとされる。「越中宝鑑」などの由緒書上によれば、月庵が飛越国境の石原村観音院に逗留していた際、新川にいかわ針原はりはら村の三上平秀より懇請されたのを機縁として、浜黒崎はまくろさき一宇を建立したのに始まるという。のち上杉謙信の兵火により焼失したが、富山城下に移り、佐々成政の祈願所となった。寛永一五年(一六三八)に、有力檀家堀茂左衛門の願出を受け加賀三代藩主前田利常から寺領一千三〇〇坪の寄進があった。


海岸寺
かいがんじ

[現在地名]多度津町西白方

弘田ひろた川河口の左岸にある。真言宗醍醐派。納経山迦毘羅衛院屏風浦海岸寺と号し、本尊は観音。大同二年(八〇七)空海の創建と伝える。「道隆寺温故記」に天正二〇年(一五九二)六月一五日・元和六年(一六二〇)四月二六日・寛永八年(一六三一)六月一五日の大師堂入仏供養が記される。寛永初頭に生駒氏より灯明料田が寄進されたという(西讃府志)当寺隆盛をみるのは元禄五年(一六九二)紀州の寂本が入寺し、屏風びようぶ浦の大師出生地とする縁起を著してからである。文化年間(一八〇四―一八)には住職快道が弘法大師伝記を出版し、大師生誕の地「多度津屏風浦」の誕生所として有名になった。


海岸寺
かいがんじ

[現在地名]須玉町上津金

上津金かみつがね集落から北へ一・五キロほど上った所にある。もともとは現在地より二〇町ほど東の山上にあったという(甲斐国志)。津金山と号し、臨済宗妙心寺派、本尊は釈迦如来。大悲閣千手観音を安置する(甲斐国志)開山石室善玖で、慶応四年(一八六八)に提出された由緒書によれば、寛文七年(一六六七)中興開山の即応宗智の代より現宗派となった。慶長八年(一六〇三)の徳川家四奉行の判物で津金村内で寺領五石と寺内門前三六〇坪が寄進された。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「海岸寺」の意味・わかりやすい解説

海岸寺
かいがんじ

古称屏風ヶ浦。香川県西部,多度津町西部の海岸。白砂青松海水浴場として知られる。西白方 (にししらかた) にある海岸寺は大同2 (807) 年空海の創建と伝えられる名刹で,四国八十八ヵ所番外札所。 JR予讃線海岸寺駅がある。

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