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磐井の乱 いわいのらん

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説

磐井の乱
いわいのらん

継体 21 (527) 年,朝鮮に出征しようとする近江毛野の軍勢を,筑紫の国造磐井が阻止し,各所で衝突した事件。磐井は翌年物部あら鹿火 (あらかび) や大伴金村らに討たれ,その子の葛子も降伏して抵抗はやんだ。

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デジタル大辞泉の解説

いわい‐の‐らん〔いはゐ‐〕【磐井の乱】

継体天皇21年(527)に筑紫の国造(くにのみやつこ)磐井が大和朝廷に敵対して起こした乱。新羅(しらぎ)に奪われた南加羅を復興するために任那(みまな)に向かう朝廷軍を、新羅と結んだ磐井が妨害。朝廷は物部麁鹿火(もののべのあらかび)を派遣してこれを制圧した。

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百科事典マイペディアの解説

磐井の乱【いわいのらん】

6世紀前半に,北九州で起きた反乱。筑紫(つくし)国造(くにのみやつこ)の磐井が指導。任那(みまな)をめぐる日本と新羅(しらぎ)との争いの中で,かねて大和朝廷に不満をもつ磐井は,527年大和朝廷が派遣する朝鮮遠征軍を1年余にわたり妨害。
→関連項目継体天皇

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世界大百科事典 第2版の解説

いわいのらん【磐井の乱】

6世紀の初めに起こった筑紫国造(くにのみやつこ)の反乱。仁賢記以後,物語部分をもたない《古事記》だが,継体記にはとくに〈此の御世に筑紫君石井,天皇の命に従はずして礼なきこと多し。故,物部荒甲(あらかひ)の大連,大伴金村の連二人を遣わして,石井を殺したまひき〉と記す。《日本書紀》の記すところでは,継体21年(527)6月に近江毛野が6万の軍を率い,任那に赴き新羅に破られた南加羅・己呑(とくことん)を復興しようとしたとき,かねて反乱の機をうかがっていた筑紫国造の磐井が,新羅の貨賂をうけ火・豊2国に勢力を張って毛野の軍を遮断したので,天皇は大伴金村,物部麁鹿火,許勢男人らに征討を命じた。

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大辞林 第三版の解説

いわいのらん【磐井の乱】

六世紀前半に北九州で起こった反乱。日本書紀によれば、継体天皇のとき、筑紫の国造くにのみやつこ磐井が新羅しらぎと結んで任那みまなに赴く大和朝廷軍に対抗したが、物部もののべ氏に平定された。畿内政権と地方政権の対立の現れと考えられ、この乱後大和政権の勢力が北九州にも及ぶことになる。 → 岩戸山古墳

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日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

磐井の乱
いわいのらん

6世紀前半に起こった筑紫君(つくしのきみ)(国造(くにのみやつこ))の反乱。『日本書紀』継体(けいたい)天皇21年6月条によると、近江毛野臣(おうみのけぬのおみ)は6万の軍隊を率いて任那(みまな)に赴き、新羅(しらぎ)に攻略されていた南加羅(みなみから)己呑(とくことん)を再興して任那にあわせようとした。新羅はひそかに反逆の志ある筑紫国造磐井に賄賂(わいろ)を贈り、毛野臣の軍を防ぐよう勧誘した。磐井は、火(肥)(ひ)、豊(とよ)の両国に勢力を張り、毛野臣の軍を遮った。8月になって、天皇は、大連(おおむらじ)物部麁鹿火(もののべのあらかび)に磐井を討つように命じ、翌22年11月に大将軍麁鹿火は磐井と筑紫の御井(みい)郡(福岡県三井郡)で交戦しこれを斬(き)った。12月、筑紫君葛子(くずこ)は父に連座することを恐れて、糟屋屯倉(かすやのみやけ)を献上して死罪を贖(あがな)ったとある。
 一方、『古事記』では、継体天皇の御世、筑紫君石井(いわい)が天皇の命に従わなかったので、物部荒甲(あらかい)大連と大伴金村(おおとものかなむら)連の2人を遣わしてこれを殺した、と簡単に記述されている。『筑後国風土記(ちくごのくにふどき)』逸文(『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』所引)も『古事記』の理由と変わらないが、在地に密着した別伝を載せている。それによると、上妻県(かみつやめのあがた)(福岡県八女(やめ)郡の北東部)の南2里に筑紫君磐井の墓墳があり、それは磐井が生前から造営したもので周囲や別区に石人・石馬、石盾などの石造物を配置してあるという。また、磐井は官軍に勝てそうもないことを知って、ひとり、豊前(ぶぜん)国上膳県(かみつけのあがた)(福岡県筑上(ちくじょう)郡の南部)に遁走(とんそう)して死んだこと、官軍は磐井を逃がして怒りやまず、磐井の墓の石人・石馬を破壊して鬱憤(うっぷん)を晴らしたと伝えている。
 磐井の反乱が『書紀』のいうように1年半に及ぶ大規模なものであったのか、またその反乱の原因に新羅がかかわっていたのかについては、『書紀』の記事には『百済本紀(くだらほんぎ)』によって説明した部分、漢文的修飾を受けている部分が多く、史実は『古事記』の記事以上を出るものでないとする見解もある。ただ、考古学の方面から、岩戸山(いわとやま)古墳(福岡県八女市吉田)が『筑後国風土記』の伝える磐井の墓のようすと適合することが証明され、しかもこの古墳を特徴づける石人・石馬の分布が、筑紫のみならず磐井が勢力基盤とした火・豊国にも及んでいることなど、『書紀』の一部の信憑(しんぴょう)性を裏付けるものとなっている。この乱の意義については、従来、大和(やまと)朝廷の朝鮮出兵の負担に耐えかねた地方豪族(国造)の反乱というのが通説であったが、近時、この乱は、畿内(きない)王権とそれとは相対的に自立性をもった筑紫勢力(北部九州勢力)との外交権掌握をめぐる対立であり、筑紫勢力は畿内王権を離れて独自の「政権」形成への道を模索していたのだとする見解が有力になりつつある。この見解によれば、磐井の乱後、初めて九州に大和王権の直接支配としての性格をもつ屯倉が設定され、筑紫勢力は、中央王権の一地方(国造)として秩序づけられることになる。[小林敏男]
『林屋辰三郎著『古代国家の解体』(1955・東京大学出版会) ▽坂本太郎著『日本古代史の基礎研究 上』(1964・東京大学出版会) ▽森貞次郎著『岩戸山古墳』(1970・中央公論美術出版) ▽山尾幸久著『日本国家の形成』(岩波新書)』

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