日本歴史地名大系 「大光寺村」の解説
大光寺村
だいこうじむら
元弘四年(一三三四)正月一〇日の曾我光高代恵藤道為軍忠注進状案(遠野南部文書)に「於元弘三四両年 津軽平賀郡大光寺楯郷合戦次第」とある。しかしこれ以前から大光寺には曾我氏がいたと思われ、曾我小五郎真光の嫡流太郎兵衛助光が大光寺に、庶流の五郎次郎惟重が
岩楯曾我氏は当初南朝方に属したが、その後北朝方に属し、暦応二年(一三三九)南朝方の南部政長らと大光寺で三ヵ月にわたる激戦を行って撃退した(「曾我貞光申状」遠野南部文書)。曾我氏が大光寺・岩楯を確保していたのは、正平一四年(一三五九)頃までといわれる。正平一五年六月五日の北畠顕信教書(盛岡南部文書)によって南部茂行に「田舎郡冬井日野間両郷 并外浜野尻郷」が、同年同月日の北畠顕信教書(遠野南部文書)によって南部信光に「黒石郷并鼻和郡目谷郷等」が与えられている。
大光寺村
だいこうじむら
- 栃木県:栃木市
- 大光寺村
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大光寺村
だいこうじむら
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出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報