大寺村(読み)おおてらむら

日本歴史地名大系 「大寺村」の解説

大寺村
おおてらむら

[現在地名]板野町大寺

現板野町域南東部を占め、北は吹田ふきた村、東は川端かわばた村、南は西中富にしなかとみ村、西は古城ふるしろ村、南東は東中富村(現藍住町)。北から南に大坂谷おおさかだに川が貫流し、南東隅を蛇行しながら北東流する吉野川(現旧吉野川)に合流している。平坦地帯で、北を東西に撫養むや街道が通り、東部をほぼ南北に讃岐街道が通る。村名は地内に郡の定額寺ともいわれる金泉こんせん寺などがあったことにちなむとされる。仁治四年(一二四三)讃岐国へ配流となった紀伊高野山の僧道範は、二月一〇日淡路福良ふくら(現兵庫県南淡町)から海路佐伊田さいた(現鳴門市)に上陸したのち、「舟ヲヲリテ阿波国坂東郡大寺ニ宿ス」、翌一一日「大寺を立て」大坂峠を越え讃岐へ向かっている(南海流浪記)

慶長二年(一五九七)の分限帳には板東ばんどう郡の大寺がみえ、九〇八石余が置塩領。また板西ばんざい郡の大寺村四四〇石が尾関源左衛門知行分。さらに同郡西大寺のうち一二五石が堀尾平右衛門知行分、一五〇石が岩田五左衛門知行分としてみえる。置塩領分は慶長八年徳島藩領となった。正保国絵図には板西郡の大寺村のみみえ、高七一二石余。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]磐梯町磐梯

現磐梯町の南部中央を占め、本村集落は南を日橋につぱし川、北を同川支流大谷おおたに川に挟まれた地に東西に展開する。川西組に属した。古くは大谷川を境に北に接する本寺もとでら村と一村で、尾寺おでら村または大寺村と称し、恵日えにち寺の門前集落として発展、また「今の大寺村を本町と称へ、本寺を新町と称し、総称を大寺」といったが、猪苗代城下もと町・あら町の町名があるため、正保四年(一六四七)本寺・大寺の二村に分村したという(宝永七年「道筋覚書」薄家文書)。しかし「猶境界を分たず、又この辺数里の間は恵日寺繁昌の時、全く其境内にて、四方の諸村多くは其旧址に開けし民居なれば、俗に大寺郷」と称したともいう(新編会津風土記)。本村の北西、大谷川支流牛沢うしざわ川沿いに小名小中野こなかどう(「こなかの」ともいう)、西方入倉いりぐら村境に端村沼田ぬまた新田がある。本村は二本松街道(会津街道などともいう)の宿駅であった。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]山辺町大寺

高楯たかだて村の北西、白鷹しらたか丘陵の東縁部に位置し、川支流の小鶴沢こづるざわ川が東流する。元和八年(一六二二)山形藩領、正保元年(一六四四)幕府領となり、寛文八年(一六六八)以降は旗本高力領。寛永一三年(一六三六)の保科氏領知目録に村名がみえ、高一千二六石余。正保郷帳では田方八〇四石余・畑方二二一石余。宝永七年(一七一〇)には家数一一八、牛三五(山辺町郷土概史)。畑作では紅花を多く植付け、作付反別は五割から七割にのぼったものと推定されている。近世後期に在方商人として栄えた当村の高橋久四郎家は紅花や白鷹山麓の青苧を集荷し、大蕨おおわらび村稲村家に販売していた。しかし、一方で白鷹山麓部や寒河江さがえ川流域では白岩しらいわ(現寒河江市)月布つきぬの川流域では小清こせい(現西村山郡大江町)五百川いもがわ峡谷方面では大谷おおや(現西村山郡朝日町)などから手代や仲買人を通して漆の実や加工した蝋を集荷、販売もしていた。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]岸本町大殿おおとの

小町こまち村の北西方、日野川下流左岸の沖積地上にあり、南方には越敷野こしきの台地が迫っている。村の中央を日野往来が通り、同往来に並行して五千石ごせんごく井手が流れる。北西は殿河内とのがわうち村、日野川を隔てて東は吉長よしなが村。古代の大寺廃寺があり、村名もこれに由来するという。また南北朝期には伯耆国安国寺が当地に建立され(のちに焼亡、現米子市寺町の曹洞宗安国寺は同寺の後身という)、盛時には僧房四十数宇の大伽藍を構え、寺領三千石を有したという。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]大原町下布施しもぶせ 大寺

小沢おざわ村の西、下布施村内の南東部に位置する。下布施村の小村であったが、領内では一村扱いされ、延宝三年(一六七五)の大寺村新畑改帳(三上家文書)がある。同五年の中滝領分知帳(中村家文書)では下布施郷大寺村とあり、高二二八石余、旗本阿部領。享保四年(一七一九)の高二三五石余(石野家文書)。以後村高・領主ともに幕末まで変わらない(旧高旧領取調帳)


大寺村
おおでらむら

[現在地名]八日市場市大寺

飯塚いいづか村の北に位置し、西は内山うちやま村、北は小川おがわ(現山田町)、東は鏑木かぶらき(現干潟町)。中世は匝瑳北条そうさほうじよう庄に属し、大寺郷とよばれた。文禄四年(一五九五)の伊奈忠次等連署手形(谷本家文書)によると、当村は森山もりやま(現小見川町)から江戸浅草まで柑子を運ぶ際、御用の人足・伝馬役を命ぜられている。慶長七年(一六〇二)の人足手形(同文書)にも江戸小伝馬こでんま町まで柑子を運搬する道筋に当村の名がみえる。元禄一三年(一七〇〇)頃の下総国各村級分では高七四五石余、幕府領と旗本小田切領の相給。弘化二年(一八四五)の関東取締出役控帳では旗本中島領二七四石余・同藪領二七四石余・同長田領一七二石余・同小田切領二五石の四給で、家数一三〇。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]松田町やどろぎ

北・西はひのき岳など標高八〇〇―一〇〇〇メートルの山山に囲まれ、東境を中津なかつ川が流れ、南は虫沢むしざわ村と接する。

近世は小田原藩領。現寄地区七ヵ村の総称東山家ひがしやまがに含まれ、正保国絵図に村名をみる。明暦元年(一六五五)一二月二五日に当村の四郎右衛門兄弟が藩主に直訴して籠舎を命ぜられ、同二九日に赦免されている(永代日記)。文政五年(一八二二)当村の者が虫沢村字清左衛門沢せいざえもんざわ山へ鍛冶炭を焼きに入ったところを見付かり、炭焼道具を取上げられ(「炭焼過料訴訟書」虫沢区有文書)、同八年当村内まつ沢に炭竈を設けて近くの立木を伐取ったところ、立木は敷地内のものとする虫沢村と争論となる(「山論為取替証文」同文書)


大寺村
だいじむら

[現在地名]虎姫町大寺・西大井にしおおい

三川みかわ村の西に位置。寛永石高帳に村名がみえ、高八八七石余のうち幕府領六二四石余・山城淀藩領二六三石余。元禄郷帳では甲斐甲府藩領・大久保忠高領の二給。天明村高帳では六二四石余が再び幕府領となり、二六三石余は遠江浜松藩領。同藩領分は幕末に出羽山形藩領に転じる。嘉永二年(一八四九)の加宿助郷帳(木屋本陣文書)によれば、村高のうち一五八石が助郷高として割当てられている。

正福しようふく(天文一〇年開基)真証しんしよう寺・西教さいきよう寺の三ヵ寺はいずれも真宗大谷派。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]木更津市大寺

井尻いじり村の南、小櫃おびつ川右岸に立地する。地名は当地にあった古代寺院に由来すると考えられる。永禄一〇年(一五六七)九月八日の日付をもつ造像札(房総金石文の研究)に「造立巣郷庄大寺薬師像一体」とみえ、巣郷庄(菅生庄)に属していた。この薬師像造立は大旦那である亀山宇津かめやまうつ(現君津市)の星野右京丞信春をはじめとする武士たちの力でなされたが、これ以前に戦乱(おそらく北条軍の侵攻)によって堂舎が放火され、大寺が「総破」となったことが記されている。地内に元亨四年(一三二四)二月日、正中二年(一三二五)の年紀をもつ武蔵型板碑などがある。寛永二年(一六二五)知行宛行状に村名がみえ、村内一石余が旗本荻原領となった。


大寺村
おおでらむら

[現在地名]出雲崎町大寺

北は村田むらた(現和島村)、南は乙茂おとも村。西山丘陵を背後にして島崎しまざき川左岸に集落がある。正保国絵図に高二七〇石余で幕府領。近世を通じてほぼ幕府領。文政一三年(一八三〇)の出雲崎郡中高辻帳(駒村善左衛門家文書)では高二九八石余。天保八年(一八三七)の村明細帳(内藤久正家文書)では戸口は二四軒・一六六人。


大寺村
おおてらむら

[現在地名]遠野市上郷町平倉かみごうちようひらくら

平倉村の東、早瀬はやせ川沿岸にある。寛永四年(一六二七)の南部利直知行宛行状(三翁昔語)によれば、大寺の高八石余が八戸弥六郎直義(遠野南部氏)知行地となった。元禄十郡郷帳には平倉村に入るとある。「邦内郷村志」では高八石余、家数一〇。享和三年(一八〇三)仮名付帳によると家数一一、うち大寺八、枝村は寺田てらた三。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

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