小滝村(読み)こたきむら

日本歴史地名大系 「小滝村」の解説

小滝村
こたきむら

[現在地名]象潟町小滝

鳥海山麓の西側、東に横岡よこおか村、本郷ほんごう村、北に長岡ながおか村、西にせき村・塩越しおこし村が隣接する。村の北東に耕地が広がり、西側には山林があり、南に霊峰れいほう山・鋒立ほこだて山がある。農業のほか薪炭資源の豊かな村であった。近世には鳥海山参詣者の登山口として宿坊が建ち並び賑った(出羽国風土記)

慶長一七年(一六一二)の由利郡中慶長年中比見出検地帳(由利郡中世史考)仁賀保にかほ郷の一村として村名がみえる。領主の変遷は川袋かわふくろ村と同じ。

元和九年(一六二三)仁賀保総高改(渡辺文書)に三九二石七斗三升三合とある。


小滝村
こたきむら

[現在地名]南陽市小滝

米沢盆地から山形盆地に通ずる小滝街道の宿駅で北条ほうじよう郷最北の村。小白府おじらふ(現上山市)の南、標高五一九メートルの峠の麓に位置する。地名の由来について吉野よしの川上流の九つの滝にちなむともいわれる。近世初期の邑鑑に村名がみえ、高四五八石余、免二ツ九分、家数三三(うち役家八、肝煎・小走二)、人数一八七、役木として漆・桑・紅花・青苧をあげる。蒲生氏高目録帳では村柄は上。上杉領村目録によると高八八七石余、本免二ツ四分。反別は田四〇町五反余・畑四六町五反余(寛政二年改)、家数一五六・人数七一五、馬六三・牛二。漆木は八千三八六本、うち役木一千一四五・百万本口三千二六九、紅花は御買紅花六〇〇匁余のほか一四四匁余、畝苧一六二貫四四〇匁・相場苧二三〇貫六一〇匁、蚕利九〇二両三分。


小滝村
こたきむら

[現在地名]糸魚川市小滝

ひめ川の支流小滝川下流に立地。北西に明星みようじよう(一一八八・五メートル)、西方に清水しみず(六〇六・一メートル)、東は姫川の急流に囲まれる。虫川むしかわから小滝・大峰おおみね峠・山之坊やまのぼう大所おおところを経て、信濃国安曇あずみ来馬くるま(現長野県北安曇郡小谷村)へ通じる川西かわにし道が通る。正保国絵図に高一八二石余とある。慶安元年(一六四八)の絵図(中村源正氏蔵)によると、大峰峠から当村の口留番所まで三〇町八間。寛永二年(一六二五)頃の小滝村絵図(伊藤是清氏蔵)によると、当村は五ヵ村に分れ、夏小屋なつごや村五軒、東山ひがしやま村四軒・みね村二軒・おか村六軒・せの村五軒であった。


小滝村
こたきむら

[現在地名]君津市山滝野やまたきの

小櫃おびつ川左岸台地上にあり、同川を挟んで平山ひらやま村・古宿ふるやど村と対する。平山村のほか、南の朝立あさだち村・村からの道が川を越えて村の西で分岐する。西は宿戸しゆくど村・四宮しのみや村へ、北は大野宮台おおのみやだい村から向郷むかいごう村・久留里くるり城下へ通ずる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳(萩野本)に村名がみえ、高一二七石。正保国絵図でも同高で、元禄郷帳では高七八石余、天保郷帳では高一〇一石余。


小滝村
おだきむら

[現在地名]氷見市小滝

東は角間かくま村、南は磯辺いそべ村、西は国見くにみ村、北は能州鹿島かしま芹川せりかわ原山はらやまありはら(現石川県鹿島町)石動山せきどうさん丘陵の南斜面に位置し、南東に開けた傾斜地を階段状に開墾して水田を開く。当村を水源とする阿尾あお川が東寄りの谷を南流し、この谷に沿って荒山あらやま往来(荒山道)が南から北西に迂回して通る。地滑りの多発地帯。正保郷帳では高一一八石余、田方三町二反余・畑方四町六反余。寛文一〇年(一六七〇)の村御印の草高一二九石・免五ツ、小物成は山役二四匁・蝋役三匁(三箇国高物成帳)


小滝村
こだきむら

[現在地名]大田原市小滝

村の中央をあいノ川が南流し、西と東は丘陵地からなる。南北にたつ街道、東西に棚倉たなくら街道が通る。東は上桜井かみさくらい村、西は中田原なかだわら村。天正一八年(一五九〇)大田原氏が豊臣秀吉より安堵された所領のうちに「こたき、上さくら井」がみえ、五九二石三斗(「大田原藩領知覚書」伊藤安雄文書)。慶安郷帳では田四七一石余・畑一二一石余、村高は五九二石余とあり、上桜井村を含むと思われる。


小滝村
こだきむら

[現在地名]黒羽町河原かわら 小滝

両郷りようごう村の南にあり、西は丘陵を隔てて大蔵おおくら村のうち薄沢うすざわ村。東を後松葉うしろまつば川が流れる。黒羽城下より両郷村を経て伊王野いおうの(現那須町)への道が通る。初めりよう村と称し(元禄郷帳)、慶安郷帳では両村は田一千九六五石余・畑八〇二石余、黒羽藩領。同村はその後小滝・大蔵・中之内なかのうち寺宿てらじゆくなど後松葉川・前松葉まえまつば川流域の村に分れたとみられる。分村の時期は元和九年(一六二三)とも伝えられる。寛文四年(一六六四)の黒羽藩領知目録(黒羽町蔵)に小滝村とみえる。寛文年中の惣給人知行高ならびに所付帳(宇都宮大学附属図書館蔵)では大関一学(増俊)の給地二四七石余があった。「創垂可継」封域郷村誌巻一には寺宿村と並んで村名があげられるが、同巻二には記載がない。


小滝村
こたきむら

[現在地名]栄町小滝

高安寺こうあんじ村の南にあり、西は指出さしで(現見附市)、南は小栗山こぐりやま(現同上)と接する。村内の檀橋だんばしから弥生式土器や平安期の須恵器が、家付いえつきからは須恵器・土師器が、また埋葬塚とみられる墓山はかやまからは中世の珠洲系陶質土器が出土している。戦国期の大面おおも城西麓に位置し、城主丸田氏が再興したといわれる曹洞宗東山とうさん寺がある。慶長三年(一五九八)頃の新発田御領内高付帳(新発田市史資料)には、当村など丘陵沿いの五ヵ村が併記され、高七六九石とみえ、同一〇年の給知方村々高目録(同資料)では毛付七〇石三斗余・荒三四石一斗余。同一五年頃の給知方ほど役帳(同資料)によれば二軒に各二斗の炉役が課されている。


小滝村
こだきむら

[現在地名]門前町小滝

中尾なかお村の南、阿岸あぎし川中流の河岸段丘と山地に立地。中世には櫛比くしひ諸岡もろおか村の内。天文二〇年(一五五一)六月三日の櫛比庄諸岡村名散田指出(興臨院文書)に「小山散田分小滝村」とみえ、地内に左近・右近・二郎右近が作職をもつ一八〇刈の田地があり、年貢銭は三貫一四文であった。正保郷帳では高一一石余、田方二反余・畑方五反余。


小滝村
こたきむら

[現在地名]作手村守義もりよし

道貝津どうがいつ村の東、現作手村の最も東北の端にある。当貝津とうがいつ川と小滝川の合流点の西の谷あいにある。本来は北設楽郡折立おりたち村の出郷であったようで、近世に独立した村ではなかった。当貝津川は小滝川との合流点で高さ十数メートルの滝となり、鳴沢なるさわの滝とよばれる。


小滝村
こだきむら

[現在地名]睦沢町小滝

上市場かみいちば村の南東に位置する。金沢文庫所蔵聖教の求聞持諸印信奥書に、文明一五年(一四八三)四月四日上総国小滝の木森寺(未詳)で求聞持一座を成就したとみえる。文禄三年(一五九四)の上総国村高帳に北滝村とみえるのが当村と考えられ、高一六六石。正保国絵図では高一六四石余で、幕末まで変わらない。元禄一二年(一六九九)の田一〇町八反余・畑一六町一反余で、取米五一石余(一四七俵余)・取永九貫四一七文であったが、同一四年から五ヵ年納米一三五俵で定免とされ、宝永三年(一七〇六)・正徳元年(一七一一)などにも定免になっている(睦沢町史)


小滝村
こたきむら

[現在地名]作東町宮原みやはら

牛飼宮原うしかいみやばら村の北に位置する。正保郷帳に村名がみえ、田二一石余・畑一九石余。元禄一〇年(一六九七)美作国郡村高辻帳では改出高一六石余・開高二石余、村位は下。津山藩森氏断絶後の領主の変遷は牛飼宮原村と同様。


小滝村
こたきむら

[現在地名]宮川村小滝

御棟おむなぎ村の南西、宮川の左岸にある。文禄検地帳(徳川林政史蔵)に「三瀬谷之内滝屋・神滝・小滝村」と記される。明治二年(一八六九)大指出帳(同蔵)によれば家数一〇、人数六〇。鹿皮代として米一斗五升四合を負担していた。


小滝村
こたきむら

[現在地名]上越市小滝

馬場ばば村の南に位置し、高田城下新井あらい(現新井市)を結ぶ道が通る。正保国絵図によると高二〇五石余。

出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報

世界大百科事典(旧版)内の小滝村の言及

【糸魚川[市]】より

…新潟県南西部,姫川の下流一帯を占める市。1954年糸魚川町と浦本,下早川,上早川,大和川,西海,大野,根知,小滝の8村が合体,市制。人口3万2931(1995)。白馬連峰と頸城(くびき)丘陵が南に展開し,山地が広く,上信越高原および中部山岳国立公園と白馬山麓県立自然公園に含まれている。地名はトゲウオ科のイトヨの生息する川に由来するという。フォッサマグナ西縁の糸魚川‐静岡構造線が姫川の谷を通り,これを境に東の第三系と西の古生界を分かつ,地質学上重要な地域である。…

※「小滝村」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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