豊臣秀吉が1588年(天正16)京都の彫金家後藤徳乗に命じて鋳造させた大判。〈大判〉とは大型の判金という意味に用いられる。徳乗は織田信長に仕えて大判を造っており,秀吉はこれを踏襲した。天正大判の量目は44.1匁(約165g),品位は金含有量が73.84%,銀は26.16%となっていた。天正大判は10両大判で,〈拾両・後藤・花押〉の文字が墨書されており,大判の上下,左右には丸い形の桐の模様の極印が打たれている。これを鋳造した徳乗の家は,江戸時代に大判座,分銅座の長官となった。天正大判は文禄・慶長期(1592-1615)に至る期間に各種鋳造され,鋳造の時期によって古鋳,次鋳,後鋳の3種類に分けられる。古鋳天正大判では1589年鋳造のものが現存している。
執筆者:作道 洋太郎
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豊臣氏が彫金師後藤徳乗(とくじょう)とその一族に命じて製作させた大判金。鋳造時期と形状によって,1588年(天正16)初鋳の古大判,92年(文禄元)初鋳の長(なが)大判,1608年(慶長13)初鋳の後鋳大判(大仏大判)に区別され,それぞれ墨書や桐紋・花押の極印(ごくいん)にも違いがみられる。いずれも重量44匁1分(165g),品位70~74%の良質な金貨。
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…桃山,江戸時代の彫金工。後藤祐乗を祖とする後藤宗家の5代目で,通称を源次郎光基といい,父光乗の嫡男として京都に生まれた。後藤家は代々装剣金具の製作を家業とし,足利将軍家に仕えたが,足利家滅亡後,徳乗は織田信長,豊臣秀吉に仕えた。特筆すべきは,家業のほかに大判金と金銀を測る天秤の分銅を製作したことで,同家の記録では1581年(天正9)信長から父とともに分銅大判役を命ぜられたと伝えている。信長没後も秀吉から引き続きこの役を与えられ,1591年4月には山城国の愛宕郡市原村,久世郡中村,葛野郡西院村に私領250石を永代不易に与えられる厚遇を得,やがて畿内各地に成立していた金屋,金吹きの業を独占掌握するようになった。…
※「天正大判」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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