江戸時代の大判鋳造所。江戸幕府の金貨幣は,御金改役後藤庄三郎支配の金座で造られたが,大判だけは当初から京都の後藤四郎兵衛を中心とする大判座で造られていた。四郎兵衛は,彫金をもって足利義政に仕えた後藤祐乗を祖としているが,豊臣秀吉のとき天正大判を造ったのは5代目後藤徳乗であり,あるいは4代目光乗の弟吉高であった。8代目即乗の1625年(寛永2)からは,徳川氏によって江戸詰を命ぜられて,江戸と京都の2ヵ所となったが,庄三郎光次に始まる金座後藤に対しては,四郎兵衛家は京都在住のときからの師家筋にあたっていた。しかし近世の武鑑類を見ると,この関係はまるで逆であって,あたかも金座後藤の付属であったかの観がある。これは,四郎兵衛家が,徳川氏のもとで,金座後藤の勢威に押されていたことを示すものである。また後藤四郎兵衛と一族は,金座・銀座のごとき勘定奉行の支配には属さず,ふだんは,彫物の関係で腰物奉行に属していた。大判座という名称も正規のものではなく,世間では〈彫物後藤〉でとおっていた。慶長・元禄・享保・天保・万延大判のほか,幕府数次の非常用金銀大分銅(ふんどう)の製作にもあずかっているが,また金銀掛けの天秤に用いる分銅の製作販売と,その分銅改めを行う特権をも認められていた。
執筆者:田谷 博吉
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判金座とも。江戸時代の大判鋳造機関。金座後藤と区別するためのよび名で正式の名称ではない。1588年(天正16)に豊臣秀吉が彫金師後藤四郎兵衛家の徳乗(とくじょう)に大判製作を命じたのをはじめとして,江戸時代を通じてその一族が大判を鋳造した。後藤四郎兵衛家は元来刀剣装具の彫金をもって徳川氏に仕えたので,腰物奉行の所管であり,大判鋳造のほか,幕府の非常用金銀分銅の製作や天秤用分銅の製作・販売を行い,全国の分銅改にもあたった。大判鋳造は当初京都の後藤家屋敷内で行われたが,明暦の江戸大火後は江戸で行われ,元禄大判以降,江戸での鋳造が定着した。
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