天王村
てんのうむら
[現在地名]能勢町天王
天王畑村ともいう。能勢郡の最北端にあり、摂津・丹波国境に接する。北東に深山があり、標高五〇〇メートルの高原地帯である。集落は天王川流域に散在する。池田街道(丹州街道)が南北に通る。「経覚私要鈔」宝徳三年(一四五一)二月八日条に「一、播州語云、山城普賢寺殿原七十余人令一烈、令違背守護立籠天王畑云々」とある。また「後法興院雑事要録」の文明一〇年(一四七八)条には「天王畑 公事銭一貫三百文 米七石 公事物 馬粥米 夏三ヶ月麦毎月六升ツヽ 四月蕨十二文 五月たけのこ二は 六月ふき十二は 十月かき三百 あらを十二は 十二月正月のいわいの物 しろよね一斗 すミ二そく くしかき六れん 正月かゝミ三」と記されるが、これらは近衛家の所領として賦課されたものである。同書同一三年条には「同天王畑 代官能勢五郎左衛門 任料百疋」とあり、代官に能勢氏が任ぜられている。
天王村
てんのうむら
[現在地名]天王町天王
北西は船越水道を隔てて船越村(現男鹿市)と相対する。東は八郎潟に面する支郷塩口村・羽立村で、西は日本海に臨み、南は江川村、南東部は児玉村に接する。船越水道に面して牛頭天王宮(現東湖八坂神社)があり、境内に康永四年(一三四五)銘の板碑がある。
文禄三年(一五九四)の小鹿嶋之内知行方帳(秋田藩家蔵文書)に「参百五拾五石八斗一升六合 天王村」とみえる。正保四年(一六四七)の出羽一国絵図に三〇〇石とある。寛政六年(一七九四)の六郡惣高村附帳では支郷とも合わせて当高四二一石五斗六升九合、本村では二二八石九斗一升二合、うち蔵分一八四石三斗四升二合。
天王村
てんのうむら
[現在地名]田辺町大字天王
西南を大和国(現奈良県)、西から北を河内国(現大阪府)と接する綴喜郡西南端の村。水取村の西方約一・五キロの山中にあり、急な坂道を登りつめると集落がある。
「京都府地誌」に「旧名上山城ト称シ古時ヨリ綴喜郷朱智庄ニ属ス村内ニ朱智神社アリ中古改称シテ普賢寺郷同郷内上村ニ普賢寺アリ依テ称ストス」とあり、村名は「天王祠朱智社ノ旧名アルニ依テ起ルト云」と記す。
「大乗院寺社雑事記」文明一五年(一四八三)九月九日条は「天王之畑」が陣地になったことを「此外摂州衆ハ千町鼻ニ陣取之、斎藤彦次郎并古市衆少々天王之畑ニ陣取之、普賢寺之内ナリ」と記し、同一七年一〇月一四日条には「山城国ニ右衛門佐方之城共ハ十个所計有之」として「河内国人 天王畑城」とある。
天王村
てんのうむら
[現在地名]浜松市天王町
中田村の東、安間川右岸に位置。牛頭天王社(現大歳神社)が鎮座。天正二年(一五七四)九月一〇日、武田勝頼が本領の替地として遠州「下堀・天王」二〇〇貫などを松井宗恒に与えている(「武田勝頼判物写」土佐国蠧簡集残篇)。松平忠頼領郷村帳では高一千一五六石余、田八二町一反余・畑五五町六反余、ほか安福寺領二石・天王(牛頭天王)領四石。元和三年(一六一七)の水野重仲知行目録では高一千一二四石余、同所新田三二石余。領主の変遷は西村と同じ。元禄郷帳では高四二一石余に減少しているが、これは天王新田村・下堀村・中田村の分村による。
天王村
てんのうむら
[現在地名]朝日町天王・宝泉寺・天宝
東北に流れる天王川が、丹生山地から平野に扇状地をつくって流れ出る辺りの左岸にある。村名は祇園天王宮(現八坂神社)の鎮座することから名付けられたという。永禄五年(一五六二)一二月一四日付景連外三奉行沙汰状(劔神社文書)に「天王神領」とみえ、劔神社(現織田町)の社領があった。
慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図では田中七郷に含まれたと考えられる。正保郷帳によると田方三七六石余・畠方一〇二石余で、うち天王社領二三石余・幸若知行分二〇〇石。最初福井藩領で、貞享三年(一六八六)幕府領となり明和元年(一七六四)三河国西尾藩領。
天王村
てんのうむら
[現在地名]春日町長王
西と北を山に囲まれ南東に谷が開く。南は黒井川を隔てて野山村、西は天王坂を越えて氷上村(現氷上町)、東は長見村。「丹波志」は同村を枝村とする。正保郷帳に村名がみえ田高一〇九石余・畠高三一石余、芝山あり、日損少し。亀山藩領。天和二年(一六八二)同藩と旗本水野家との相給になり(鶴牧藩大概帳)、同三年には亀山藩領分高二三三石余・水野領分高八石余、夫役・柴役・糠藁役・竹役の銀納と山役の米納(「亀山藩知行高並小物成帳覚」氷上郡志)。
天王村
てんのうむら
[現在地名]福井市天王町
東の上六条村と西の下六条村との間に位置する。枝村に上天王がある。慶長一一年(一六〇六)頃の越前国絵図に村名がみえ、高七二二・九三五石。正保郷帳によると田方六八二石余・畠方四〇石余。福井藩領で、文政六年(一八二三)の給人地方渡名寄帳によれば稲葉氏ほか四名の相給知行地。
天王村
てんのうむら
[現在地名]豊橋市下条西町
八反ヶ谷村の北で、藤ヶ池村の西にあたる。近世を通じて吉田藩領。享保一〇年(一七二五)の二川宿助郷帳(橋良文庫蔵)によれば、村高三七五石のうち助郷高三七五石で、二川宿まで一里一八町。
出典 平凡社「日本歴史地名大系」日本歴史地名大系について 情報
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