日本大百科全書(ニッポニカ) 「大田荘」の意味・わかりやすい解説
大田荘
おおたのしょう
備後(びんご)国世羅(せら)郡にあった荘園。広島県世羅町一帯にあたる。1166年(仁安1)に平家一門の平重衡(しげひら)が預所職(あずかりどころしき)を留保して後白河院(ごしらかわいん)に寄進して成立。立荘(りっしょう)時は大田・桑原(くわばら)郷のみであったが、まもなく尾道(おのみち)に倉敷(くらしき)が置かれ、郡内の宇賀(うが)郷、戸張(とばり)保、横坂(よこさか)郷などが加えられ、建久(けんきゅう)年間(1190~99)までには田数613町を数える荘園となった。平家滅亡後の1186年(文治2)には後白河院から高野山(こうやさん)大塔に寄進された。当初、勧進僧(かんじんそう)鑁阿(ばんあ)が荘務を執行して支配体制を整え、その死後は、大塔供僧(ぐそう)が荘務を握り、その上位者より初め4名、のちに2名(大田方、桑原方)が預所として任命された。一方、下司(げし)は世羅郡の郡・郷司の系譜といわれる橘(たちばな)氏であったが、1197年(建久8)ごろには謀反の咎(とが)で所職を没収され、その跡には鎌倉幕府の問注所(もんちゅうじょ)執事三善康信(みよしやすのぶ)が地頭(じとう)に補任(ぶにん)された。康信の子孫は、大田方本郷の上田氏、同山中郷の富部氏、問注所執事を世襲した桑原方の大田氏の3流に分かれたが、本郷地頭以外は支配基盤が弱体であった。
鎌倉後期、在地出身で沙汰雑掌(さたざっしょう)を兼務する請負代官的預所が次々と登場した。なかでも和泉坊(いずみぼう)淵信(えんしん)のごときは、尾道を拠点に年貢運送業を営み、巨万の富を築いたといわれ、彼らの下で荘の支配の再編がなされ、荘内の各地頭と相次いで和与(わよ)が成立し、下地(したじ)分割が進んだ。南北朝期、三善氏の勢力は後退し、1333年(元弘3・正慶2)には後醍醐(ごだいご)天皇から地頭職が高野山に寄進され、寺家一円領となるが、在地代官の違乱が激しく、応永(おうえい)期(1394~1428)には山名氏の守護請となった。しかしこれも未進が多く、応仁(おうにん)の乱(1467~77)後は荘の実は失われた。
[飯沼賢司]
『『大日本古文書 高野山文書』(1904)』▽『江頭恒治著「備後国大田庄の研究」(『高野山領荘園の研究』所収・1938・有斐閣)』▽『阿部猛著「地頭領主制――備後国大田荘」(『日本荘園史』所収・1972・新生社)』▽『『広島県史 古代中世資料編 Ⅴ』(1980・広島県)』